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4月, 2024の投稿を表示しています

インテルに凋落の兆し

インテルについては、過去に分析記事をアップしました。今季はその記事を再掲します。この記事の趣旨は、インテルの低迷は構造的な問題に起因しており、小手先の対応ではかつてのような栄光を取り戻すのは困難であるということです。  私は、GEの分析でもラリーカルプが発表する前にGEが復活するには分割が必須であると述べました。インテルも同様で、本当の意味での復活するには分割するしかないというのが私の持論です。  実際、GE株を10ドル程度の時に購入した人は、その後2~3倍の儲けを得ることができている。GE自体はあくを出し切っているのでこれ以降の飛躍もある程度は期待できる状況下にある。インテルも購入タイミングを間違えなければ同じような儲けることは可能と私は踏んでいる、当然であるが、未来は誰にもわからなく保証できるものはないが。 1.半導体産業の王座転落  インテルは半導体産業の盟主です。半導体シェアの推移は、1982年8位、1993年1位、 1999年1位、そして2021年1位とそうそうたる実績です。それにも関わらずインテルは斜陽と言われて久しいのです。それは、スマホ台頭における市場シェア獲得の失敗、GPU市場におけるエヌピディアなどの台頭。データセンターに代表される大手IT企業のCPU内製化の動きなど成長分野で強みを発揮できていないことが理由として挙げられます。さらに、追い打ちをかけるように半導体産業は設計と製造の分離が進んでおり、総合半導体メーカーであるインテルは設計及び製造技術において専門メーカーの後塵を拝しています。市場は、そんなインテルを冷ややかな目でみているようです。 2.製造における技術低下  インテルの決算を見るとサムスンと絶望的ともいえる開きが生じており、令和4年の第2四半期の決算報告を例にとるとサムスンの増収の幅がインテルと比べ圧倒的に大きいだけでなく、インテルは大幅な減益でサムスンは大幅な増益です。両社の発表は、インテルは需要が一巡したための低迷、サムスンはハイテク大手のクラウド需要が好調と真逆となっています。これは、インテルの製品が市場から受け入れられていないことを示唆し、半導体製品という点では、インテルはサムソンとTSMCに追い付くことが出来ない程の技術的な差が生じてしまった事を表しています。それだけではありません。後ろには中国企業が猛追しています。インテ

AI半導体の盟主(エヌペディア)の今後を占う

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 私自身の率直な感想として、NVIDIAがここまで爆上げするとは思っていなかった。この会社、言ってしまえばGPUの世界一の企業であるが半導体の設計会社に過ぎない。この会社の得意とする半導体がAIブームに乗っただけに過ぎない。 とはいえ、ビジネス競争が最も激しい半導体分野では、たとえNVIDIAが無双状態であったとしても、遅くとも3~5年もすればNVIDIAより低スペックであるが代替する製品がアジアなどの他国から現れてくるのは間違いなく、AI産業のすそ野としての半導体は二流製品の廉価品が市場に多く出回るようになる。そうなるとNVIDIAは、ひたすら高スペックGPUを提供し続けることで競合他社を大きく引き離すことを続けなければいけない。しかし、これは時間の経過によりスペック差の効果は小さくなっていく。  そういった視点から、NVIDIAの株価は、いや時価総額は間違いなく実力以上の値を付けている。   とはいえバブルという相場の性質を勘案すると、NVIDIAの株価はシスコシステムズのように天空を築くかのように上昇しまくる。シスコシステムズはITバブルの時の中心銘柄であったため、一時期世界一の時価総額を記録した。ITバブル以降は、主役がソフトウエアに移ったことでネットワーク機器メーカ扱いとなり、株価はIT製造メーカの範囲で推移するようになり、2024年現在にいたっても往年の株価に戻っていない。NVIDIAもAIブームをけん引する筆頭銘柄であることを考慮すれば、GAFAMを凌駕する時価総額を近づくという見方も否定できなくもない。  つまり、AIブームは、これから長期にわたって市場を賑わすテーマになるので、いつ・どこまでの期間まで上昇するのかは、誰にもわからないが、NVIDIAはその初期段階でのスター銘柄であることには違いない。つまり、ITバブル時のシスコシステム的な位置づけとすり替えることもできる。そういう点では、第一期AIブームの頂点を極める銘柄として天空を舞うような株価を記録するのも想定の範囲内である。  ただ、その後はシスコシステムズと同様、第二期AIブームの主役は革新的なソフトウエアやロボットのような関連機器に変遷していき、株価は数分の一まで転げ落ちることもあり得る。 当ウェブサイトの情報は、個人的な私見を述べたものにすぎません。このため、当ウェブサイトに掲載された情

お金持ちほど、政治的なイデオロギーや世の中の避けられない矛盾に中立のスタンスをとる

   日々、いろいろなニュースが流れて、世の中の避けられない矛盾やイデオロギーを煽っている。  私たち日本人も、テレビやネットの様々なニュースをみて政治家や用の中に怒りを感じたりして興奮している人も少なくない。 しかし、金持ちはそんな情報に振り回されない。さらにこれら対立をあおっている指導者ほど莫大な財産を保有し、豪勢な生活をおくっている。一方、庶民は長屋みたいな粗末な家で、マスコミが報道する政治ニュースやカリスマ指導者の演説に興奮し、挙句にはデモすら起こしている。  これって、冷静にみると何かおかしくないと思ってしまう。  例として、 パレスチナ紛争において、パレスチナ人がスラムなような貧しい生活をしている一方で、アラファト議長は数千億の財産を残した。奥さんは孫のような年齢のモデルのような美女。このように、自分たちは豪邸に住んで、モデルのような妻をめとって、外では庶民のためと銘打ったイデオロギーを展開する。  さらには、イデオロギーの違うもの同士が裏では仲が良いなどということも少なくない。  イデオロギーで西欧と対立している国の指導者の一族が、欧米の一流大学に留学し、欧米の一流企業に就職し、豪邸に住んで欧米のセレブ仲間とつるんで、莫大なお金を欧米の銀行に預けているなど一般の欧米人より欧米文化を謳歌している。  日本でも、よくヤクザ の親分と警察幹部、大物政治家はつながっているといわれ、下っ端は死闘を繰り広げる敵同士なのに、上層部は豪勢な会合で仲良く顔を合わせているなんて本当か嘘かわからない都市伝説がある。  政治的な権力者やお金持ちには 、人種や国家に対するイデオロギーなど存在しない。そしてお互いに敬意をもって尊敬しあっている。一方、階層が下になるにつれ、 一般人同士では、お互いに些細なことで差別しあっている。  そうなると何が正義なのか?正論とは支配者が民衆を縛り付けるためのツールに過ぎない。それは意識的でもあり、無意識的でもあるが。  投資家においても、政治的なイデオロギーに振り回されることはない、米国の民主党と共和党の政策の違いとか、米中対立などに感情的になるのではなく、こういった状況下でどのようにしたら効率的な投資を出来るかを模索すべきである。  中国の華僑は、それをわきまえて世界中で商売をしている。これを見習うべきである。  一方、日本の政治家や主要

歪を抱えながら経済力を膨張させるドイツ

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 ドイツの国力は今や日本を猛追し、ついにはGDPを追い抜いて、今度は、世界一の債権国の立場すらはく奪されるという矛盾が横たわっている。暗いニュースとは裏腹に世界の中での経済大国としての地位は盤石なものにしている。 ドイツ経済について辛辣に述べているエコノミストや識者が多い。しかし、私から言わせてもらえば、他の国を心配するより日本の事を心配しろと言いたい。 一方、デフレを解消する政策として超金融緩和を長年にわたって続けてきた日本は、国内経済の均衡をなんとか保っているが、円安政策も相まって国際的な地位の低下が著しい。今となっては東南アジアですら日本とほぼ同じ物価水準である。90年代の日本がいにしえにすら感じてしまう。 このように日本とドイツは全くと言っていいほどの真逆の動きをしている。 ユーロは、欧州連合(EU)加盟27カ国のうち、19カ国の通貨同盟である。ユーロ通貨はドイツの経済力に比べてはるかに言っていいほど割安。ドイツはユーロ圏の盟主であり、一番の経済大国であり、世界トップ級の貿易黒字国である。とはいえ、ある国が膨大な貿易黒字を計上しても必ずしも好景気に沸くとはいえない。逆に不況であったりもする。それは、貿易の輸出と企業利益に相関関係はないからである。90年代の日本がまさにそのような状態であった。  この事から言える事。国内で景気如何に関わらず海外では大国を維持し続けているドイツとそのようなプライドをかなぐり捨てた日本。 どちらが良いのか一概に言えないが、その違いをもう少し冷静に分析する識者がいても良いのではないかと私自身、ふと思ってしまう。

人生における労働を考える

  人生は長いようで短い。人は人生の多くのお金を稼ぐための労働に費やさなくてはいけない。人生において労働は切って切れない関係である。  タイなどの東南アジアでは、富裕層は保有資産から生まれる配当で生活できる人を指し、労働は無産階級が行うものという考えがある。  日本の場合、富裕層は配当というより労働所得が突出して高い層を指している。一部の成功者が最終的には配当で生活できるようになったとしても、その後は過酷な相続税で大部分の財産を剝奪され、世代を跨っての資産の継承は非常に困難である。  マスコミやネットの情報とは裏腹に、外国人から見たら理想的なまでの社会性民主主義国家に見えるが、平等であるがゆえに優秀な人とそうでない人の実生活の差が限りなく小さくさせられている。悪名高き朝の過酷な満員電車などは、西欧人から見たらまさに発展途上国のような前近代的な光景であるが、その中には超といえるほどのエリートがたくさん乗車している。  賃金面においても、社長と社員の給与差は海外と比べる驚く程小さい。  さらに高収入を得ても累進課税制度により手取りベースでの差を最小限に日本政府によって抑えられている。 それだけではない。年収が高くなるにつれて社会保障の特典が削り取られまさに踏んだり蹴ったりである。  まさに、中途半端に優秀な人が割を食う社会がそこにある。しかし、そんな真実に誰も触れようとしないだけではなく、マスコミやネットでは年収だけを軸にして、面白おかしく格差社会記事を量産している。  そうなると、日本には努力しても桃源郷が存在しないように思われるが、日本には「おもてなし」文化に代表されるような海外なら高いお金をかけなければ受けとれないホスピタリティを至る所で受けることが出来る。ちょっとした定食屋や居酒屋で高級料理と遜色ない味を堪能することができる。日本では海外と異なり商品の質と値段に相関性がないことも少なくない。  日本で富裕層になれば、これらサービスにお金をかけずに最大限に享受することができる。まさに桃源郷そのものである。    日本の生活は、まさに「帯に短し襷に長し」であり、日本政府は日本国のための労働をもって収入を得て、幸せを得るデザインの中で生活するように社会設計をしている。そういった中で日本政府のデザインを潜り抜ける切れ者だけが日本国の良

株式投資と馬券購入に違いがあるの?

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  電車の中で隣に座っているおじさんがスポーツ新聞を真剣に読みながら馬券の購入を検討している。記事には馬の健康状態(コンディション)、馬の性格、過去レースの実績、そして馬を乗りこなす騎手の実績、最後に評論家の総合的なコメント、雑誌側の独自の順位予想  では株式購入はというと? 投資家は四季報などを読みながら。会社の直近の経営状況、提供している商品や技術の強み、景気又は産業動向、そして会社の社風と経営陣の評価、最後に評論家のコメント、想定される株価のレンジ。投資家はそんな情報をくみしながら投資有無を判断する。  この二つに何が相違があるのか?形は違へど構図に大きな相違はない。 「競馬新聞に書かれている内容」と「経済誌に書かれている内容」は形は違えど著者の恣意的な表現や判断が入っており、客観的な情報とは限らない。伝えるものにフィルターが入っている。  さらに株式投資で最も難しい所は、各々銘柄の価値(株価)が、どの程度先までの情報や見通しを織り込んでいるかであり、残念ながら誰にも分からない。さらに銘柄ごとに織り込み具合は異なっている。 実のところ、株価は日々のニュースや評論家のコメントを既に織り込んでおり、株価は織り込んでいない情報や見通しに反応しているにすぎない。この事は期待以上の好決算を発表しても株価に織り込んでいる決算内容より低ければ株価が下がるし、想定より悪い決算でも悪材料出尽くしと判断されれば反転することに表れてくる。  これは投資家にとって、ネットや書店からの情報など役に立たないことを示唆している。そのため、勉強熱心な投資家ほど投資成績が振るわない。さらにエコノミストが有能な投資家になれない理由もそこにある。   投資家にとっては、どこの雑誌に書かれていない想定を探し出すことが本当の意味での調査分析となるが、そんなことは並大抵の話ではない。  そう考えると馬券と同じように株式投資も当てずっぽの域を超えていない。