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既得権益職業没落時代の新たなる生き方

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   既得権益職業没落時代の新たなる生き方 (GHQによる日本の民主化) 日本は、明治維新のような社会革命を(比較的)無血で成し遂げるなど、世界でも稀有な歴史を持つ国です。しかし、その明治維新も、実態としては薩摩や長州の下級武士層が時代の波に乗り、新たな既得権益を勝ち取り、新たな支配層として日本社会の中枢を占めるに至ったという側面がありました。そのため、大部分の日本国民の生活は、旧来型の身分意識や社会構造に縛られたままで、大きな変化はなかったとも言えます。 この構造にメスを入れたのが、戦後のGHQ(連合国軍総司令部)でした。GHQは、身分制度の廃止、財閥解体、そして農地改革(地主から土地を取り上げたこと)を断行し、日本の既得権益構造を強制的にシャッフルしました。  強いて言えば、財閥解体を免れた一部のオーナー企業経営者や、医師、政治家、弁護士といった中堅エリート層が、かろうじて特権階級的な地位を維持し、現在に至っています。その一方で、一般家庭出身であっても学業優秀な「学歴エリート」、特に官僚が社会の主導権を握る時代へと移行していきました。 (疲弊する「既得権益職」)    戦後は、官僚などの学歴エリートが、政治、行政、そして三菱、住友、三井といった(解体の影響を受けつつも)旧財閥系の大企業において、主導的な役割を担うようになりました。彼らは必ずしも「大金持ち」ではありませんでしたが、安定した資産と高い社会的地位を築くことに成功しました。  しかし、時代とともに大卒者が増加し、高等教育が一般化するにつれて、こうした「学歴エリート」の特権的な地位は徐々に薄れていきました。結果として、日本は世界でも類を見ないほど格差の少ない、平等主義的な社会の形成に成功したと言えます。  例えば、政治家は依然として強大な権限を持っていますが、「政治資金規正法」などにより、金銭面では厳しい制限が課せられています。かつてのように豪邸を構えれば、すぐに資金の出所をメディアや国民から問われかねない状況になりました。  官僚は、かつては学生にとって最も魅力的な就職先の頂点にありましたが、マスコミなどによる厳しい監視の目によって、安易な「天下り」は困難になりました。その結果、給与水準に見合わない壮絶な激務だけが残り、優秀な東大生が官僚よりも高収入の得られる外資系...

「疑似弱者」という社会の「真の」勝ち組

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 21世紀に入り、民主化の進展と基本的人権の尊重は著しいものがある。政治家は「弱者(負け組)」の保護を訴えなければ、国民からの支持を得ることが難しくなった。特に日本においては、戦前のように富める者は富み、困窮する者がますます困窮するような事態を放置することを国民が許さない。その結果、「勝ち組」には、「負け組」の生活を支援するため、多くの税金が課せられている。 しかし、そこには「疑似弱者」という、法や制度の網の目をかいくぐる「勝ち組」が存在するのも忘れてはいけない。 (弱者保護の盲点を突く) 政治家は、票を投じる有権者が巨大な組織になればなるほど、その意向に逆らいにくくなる。結果として、団体票を持つ組織に利益をもたらす政策を打ち立てざるを得ない。そこには、結果として「富める者が(さらに)富む」という要素も含まれ得る。 また、有権者の中には、自らの権利を確保するため、自身を「弱者」と位置づけ、既得権益の維持や新たな利益を得ようとする人々もいる。一見弱者のように見えても、実態はそうではない「疑似弱者」の存在だ。票によって成り立つ政治家は、理想と現実、そして様々な既得権益と「疑似弱者」の狭間で、政策を打ち出さざるを得ない状況に置かれている。  21世紀の政治は、こうした「疑似弱者」の影響力が強い時代とも言える。既得権益層は社会から批判されやすいが、「弱者」は社会的に同情を受けやすい。さらに、彼らは表向き社会的な「勝ち組」ではないため、社会への不満を表明しやすい立場にある。 さらに、「弱者保護」という観点から打ち出される法案は、与野党問わず反対することが難しい。そしてそのツケは、旧来の「勝ち組」への増税という形で跳ね返ってくる。「疑似弱者」は、そういった政治構造の盲点を突き、様々な恩恵を最も享受しやすい層と言える。 (「勝ち組」が損をする時代) 現代の日本社会においては、制度面で「勝ち組」に様々な負担が強いられている。特に税金面で苦しい立場に置かれがちなのが、サラリーマンの「勝ち組」である。彼らの収入は正確に把握されているため、政府はそこから確実かつ安定的に税を徴収することができるからだ。 つまり、サラリーマンに限らず「勝ち組」になるということは、「強者税」とでも言うべきものを支払っているのに等しい。年収が上がるにつれて責任と仕事量は膨れ上がるにもかかわらず、手取りで...

新たな視点で楽しむ日本

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  (画一的ではない日本人の発想力) 日本人はしばしば画一的な民族だと思われがちですが、実際には非常にユニークで独創性に富んだ国民性を持っている。その好例が、日本人が数多くの受賞者を輩出している「イグ・ノーベル賞」だ。 この賞は「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に贈られるもので、常識にとらわれない自由な発想の証と言える。例えば2019年には、愛知県と京都大学の研究チームが「牛にシマウマのような模様を描くと、吸血バエからの被害が減る」ことを突き止め、賞を受けた。この研究では、白黒の縞模様を塗った牛は、何もしない牛に比べて吸血昆虫の数が半分以下になったと報告されている。こうしたユニークな研究が生まれる土壌こそ、日本人の面白さの一端を示している。 (江戸時代に秘められた先進性) 日本人の多様性を育んだ歴史的背景として、江戸時代の再評価は欠かせない。かつて教科書では、鎖国によって世界から取り残された停滞の時代と描かれがちだった。士農工商の身分制度や重い年貢に苦しむ農民の姿が強調され、明治維新によって初めて近代化が始まったと教えられてきた。 しかし、近年では、以下のようにその価値が見直されている。 ①庶民が主役の文化 王侯貴族が文化の中心だった多くの国とは異なり、江戸では庶民が文化の担い手だった。浮世絵、歌舞伎、俳諧といった多様な文化が町人の中から花開いていた。 ②柔軟な社会構造 「士農工商」という身分制度はあったが、決して固定的なものではない。例えば、4代将軍・家綱の生母は、一介の町娘であったと伝えられている。実力や才覚、時には運によって、人が身分を越えて活躍できる余地があった。 ③世界最先端の経済システム 経済面でも革新的な取り組みが見られた。大坂の堂島米会所では、世界で最初の本格的な先物取引が行われていた。また、時代によって大胆な金融緩和や引き締め政策が試みられるなど、農耕経済であった一方、一部では極めて高度な経済システムが機能していた。 (「鎖国」が育んだ独自の感性) もちろん、江戸時代に階級制度の軋轢や、時に為政者の腐敗による百姓一揆などが存在したことも事実。しかし、社会全体を見れば、それは人々がたくましく、ユーモアと創造性をもって困難を乗り越えてきた時代でもあった。  厳しい生活の中でもそれを笑いに変え、芸術へと昇華させるエネルギーが、町人文化を...

日本に漂う閉塞感の正体(その2) 不安遺伝子の呪縛

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 日本に漂う閉塞感の正体 ( https://investment-v3.blogspot.com/2022/04/blog-post_16.html )を書いているうちに、日本人のこのような行動を促しているのは別の要因があるのではないかと感じた。日本人の行動はあくまでも結果であり、原因ではないという事である。 (遺伝子学からの考察)  不安感を直接抑制する物質はセロトニンであり、人はセロトニンを多く持つ(L(ロング)型楽観遺伝子)と、少なく持つ人(S(ショート)型不安遺伝子)に分かれる。 「S」型遺伝子保有は、日本人80%、韓国79%、中国人75%、台湾人70%、スペイン人47%、アメリカ人45%、南アフリカ人28%という調査報告があり、人種で不安の許容度が大きく異なる。さらに、不安遺伝子「SS」型を日本人は68%で、アメリカ人は5人に1人、逆に、アメリカ人は楽観遺伝子「LL」型遺伝子を3人に1人が保有し、日本人は2%弱に留まっている。日本人は遺伝子学的にも不安を抱えやすい民族であることが言える。この事は同じ出来事に遭遇した場合、日本人は「深刻」に考え、米国人が「偶然の出来事に過ぎない」と考え、アフリカ人は「これが悪い出来事なの?」程度の開きがある事を示唆している。 (単一民族の島国であるがゆえに強制される空気感) 日本人は、とかく空気感を重視する。それは、単一民族国家であることに要因があるのであろう。つまり、国全体は村社会でどこに逃げても同じ考えの人達しかいない。海外と異なり逃げ場に苦慮するのだ。さらに、諸外国のように自分達と全く異なる言語や習慣を持つ民族と常に争いごとを繰り返し、他民族の支配下におかれたこともないので自分たちの意見をはっきりいう事の大切さを奥のほうに追いやった。しかしながら、日本人のような単一民族が、これまで他国に攻められることが殆どなく、国の統治者が同一民族であることを踏まえると、本来ならおおらかな性格になるべきであるがそうなっていない。村社会の掟が他国と比べて想像以上に酷であったことの証であろう。 (不安遺伝子の多い理由) 日本人が不安感を強く抱くのは、遺伝子学から見れば古代の日本人の祖先のつらい記憶であり、それが現代人に引き継がれていると言える。では、このつらい記憶はいつの時代のものだろうか。今の人類の原型はアフリカで生まれ、そこ...

情報社会の代償 隣の芝生という厄介な存在 

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  初版 2023.3.11 (旧名:隣の芝生に振り回されない生き方こそ最良の生き方) 1.隣の芝生は人間の本能 人はなぜか、隣の芝生が青く見えるようである。どうもこれは人間の本能のようである。人は常にどこかで桃源郷があると信じて疑わない。だから他人に対して勝手というべき様々な妄想を抱いて喜怒哀楽を繰り返している。ドラマや週刊誌、映画,そしてインフルエンサーが煽り立てるような装飾され、誇張されたカッコ良い生活をしている人が常にどこかにいると信じて疑わず、そういった人たちへの憧れや羨望を抱こうとするように出来ている。        2.隣の芝生の幻想例  ①政治家  政治家は社会的には上流階級に位置する職業で、まさに隣の芝生である。しかし、そんな隣の芝生も今となっては、はっきりいえば苦労の割には見返りが少ない。一昔前なら、貴族の位を得られ、豪邸に住み様々な利権から得る膨大な富を得ることができたが、今では億ションにすら住めない、逆に豪華な生活をしていると賄賂を疑われお縄!となってしまう。仕事面では、4方から様々な意見を集約し意見調整を図りながら一つの指針を作り上げるという相当な労力と精神的な負荷を強いている。もはや、政治家という職業が好きでないとやってられない。 ②旧来型のエリート 大企業社員、医者、官僚、外資系金融や大手弁護士事務所の幹部等などのエリート職業もアッパーミドルの代表的な職業で庶民とは一線を画している。一昔前まではエリートとして大企業に入れば、それなりに出世し、それなりの報酬も得て、さらには子会社で役員級の役職に就いて会社人生の余生をおくる。まさにアッパーミドルの典型例のような人生であるが、今はこのような天下りが出来なく、給与面でも、天下りが減った分、人生後半の高給生活が遮断され、年を追って旨味が享受できなくなった。 ③セレブと言われる成功者  セレブと言われる超高所得者(芸能人やスポーツ選手、ベンチャー企業の創業者)なども隣の芝生の典型例である。これら人たちの共通点は実力主義の環境下で自分の力量を頼りに成功者と言われる地位まで上り詰めた事である。私たちは、雑誌やテレビで芸能人やスポーツ選手、事業の成功者などのセレブ生活や豪邸報道に対し羨望のまなざしを抱いてしまう。しかし、そこには成功者ならではの魑魅魍魎とし...

金持ちほど無益なトラブル(不幸)を上手に避けるものだ

(資産(幸福)を蓄積することの意味)  お金のあるなしの判断は収入に比例するのではなく、資産規模に比例する。お金のない人は、言い方を変えると資産を蓄積できない人から始まり、計画通りにお金を使う事が出来ない人、浪費癖のある人とグレードが上がっていく。こういった人は、大抵の場合、どんなに高収入であったとしても、お金の量に併せて自分たちの生活をグレードアップさせてしまうように頭が出来ている。だから、手元にお金は残りにくい。このため、心に余裕が出来にくくトラブルを誘いやすい。  このタイプが他人なら冷静に見ることもできるが、親族にいたら大変である。お金のある時は気前よく心強い人に見えるが、逆回転すると非常に厄介な人に変貌する 。 (お金が心の余裕を拡げる)  「金持ち喧嘩せず」という諺がある。そもそも多くの金持ちは、人間関係において、自分の意見を通したり、感情を表に出すことで不要なトラブルを起こすような事を好まない。それがどれだけ自分自身にとって無益な行為であるかを知っているからだ。  社会生活における強い人は、腕っぷしが強いとか声が大きいという人ではなく、どんな局面に対しても冷静に物事を進めていけるタイプに他ならない。つまるところ「辛抱強く。打たれ強い」人を指す。どんな仕打ちをされても、その人の悪口などを一切しないクールさを持ち合わせている人でもある。  お金持ちがこういう人だけとは限らないが、お金持ちは金をたくさん持つことで、社会的な不安や社会生活に横たわっている様々なしがらみ(束縛)は少なく出来る。また、心に余裕を持つことで、社会に横たわる様々な不条理への免疫力も高くなる。それがトラブルなどの不運につながる事柄への退避能力が高くなり、結果として幸運をつかみやすくなる。 (お金はストレスの耐性を強くする)  お金のない人は、社会的な不安や社会生活に横たわっている様々なしがらみに対しての逃げ場が乏しく、不安や抑圧にさらされやすい。このため、常に漠然とした不安に慄いたり、満たされない環境下での生活をおくることになる。その不安や不平不満を覆すように、対人関係において過剰な承認要求を求めたり、自己の世界観を他人に押しつけて説教がましくなったり、些細な事で興奮したり感情的になり他人との関係をギスギスさせてしまう。また、現実を直視できずに妄想や虚言癖を患ったり、他人に対して自分の都...

日本に漂う閉塞感の正体

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  これは私自身の勝手な思い込みなのかもしれないが、日本中に言いようのない閉塞感が漂っているような気がしてならない。それは年を追うごとに強くなっているようでもある。  人は無意識に以心伝心で相手の心と通信しているものだ。そのため、言葉を交わさなくても周りの人たちの不安な気持ちは空気感として伝わってくるものだ。 1. 経済は先進国 労働環境は後進国以下 コロナ禍によって、世界中でテレワークが拡がり在宅ワークが一般的になり始めたが、最近の通勤ラッシュ状況を見ているとライフワークバランスは形だけにすぎず、本当に先進国民の姿なのかと疑いたくなる。帰りの電車でも、神奈川、埼玉、千葉の郊外に向かう電車に乗るサラリーマンの哀愁漂う姿。特に、夜8時から10時に乗る列車内は、夜も遅いのに電車は込み合っている。そこには、仕事疲れというよりは35年ローンや子供教育費の重圧を背負いながら、ストレスを抱えて仕事にしがみ付こうとするサラリーマンの切ない哀愁が充満している。

アザケイ小説から日本社会の疲弊を読み取る

  この小説は、人々が薄々感じているがあまり語らないことを赤裸々に描いていると短編小説です。この小説から読み取れることは、普通に生きることのハードル年を追って高くなってしまい、意識高い系の高い人たちにまで及んでしまっているという日本社会の深刻な疲弊である。あざケイ文学から、こういった競争社会の負の歪を見せつけられたような気がしてならない。   ☆「ふぞろいの林檎たち」の現代版    この小説の前提にあるテーマは、一見社会的な勝者に見える人たちの虚像というべきものである。これは明らかに作者のレトリックで、 40 年前に「ふぞろいの林檎たち」というドラマと比較すると面白い。「ふぞろいの林檎たち」では学歴競争敗者の社会的な抑圧や挫折感を描いて反響を呼んだ。アザケイ文学は、「ふぞろいの林檎たち」の勝ち組の変遷を描いたと言えるであろう。そこには、バブル崩壊以降の日本株式会社という名門企業群の衰退によるエリートサラリーマンの幸福度の激減が描かれている。日本の子供たちは、旧来型のエリート像を追い求めるように受験競争をさせられる一方、その後は大学入学時と卒業時のイメージの乖離、一流企業に入社時とその後の生活イメージの乖離が続き、いつまでたっても思い描いていたイメージ像に届かず絶望する。そんな実態が浮かび上がってくる。   ☆必要条件を十分条件に勘違い。  人生 100 年時代にたかが 18 歳の受験の結果で人生の結果が決まるなんてナンセンスなのだが、これら優等生は一流大学に入ればその後の人生も悠々自適に送ることができると、特に地方出身の受験勝者は信じている。実際、一流企業などの就職数や役員も大学ランキングではトップクラスである。そんな情報を得て自分達もいつかはこのような地位まで上り詰められると思って社会に出る。まさに必要条件と十分条件を勘違いしているのだ。十分条件である泥臭さ、それは会社で奴隷のように重労働し、学歴云々隔たりなく周りにはいい人を演じ、上司に好かれるような態度を貫いていくことで少しずつ役職の階段を上り続けていく結果でしか役員昇進への光は差してこない。まさに苦労に苦労を重ねたうえでつかむ勲章なのだが、これら優等生は、まるで「課長島耕作」のような漫画タッチの軽さで人生を謳歌できると信じ込んでいる。そして社会に揉まれ...