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日本に漂う閉塞感の正体(その2) 不安遺伝子の呪縛

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 日本に漂う閉塞感の正体 ( https://investment-v3.blogspot.com/2022/04/blog-post_16.html )を書いているうちに、日本人のこのような行動を促しているのは別の要因があるのではないかと感じた。日本人の行動はあくまでも結果であり、原因ではないという事である。 (遺伝子学からの考察)  不安感を直接抑制する物質はセロトニンであり、人はセロトニンを多く持つ(L(ロング)型楽観遺伝子)と、少なく持つ人(S(ショート)型不安遺伝子)に分かれる。 「S」型遺伝子保有は、日本人80%、韓国79%、中国人75%、台湾人70%、スペイン人47%、アメリカ人45%、南アフリカ人28%という調査報告があり、人種で不安の許容度が大きく異なる。さらに、不安遺伝子「SS」型を日本人は68%で、アメリカ人は5人に1人、逆に、アメリカ人は楽観遺伝子「LL」型遺伝子を3人に1人が保有し、日本人は2%弱に留まっている。日本人は遺伝子学的にも不安を抱えやすい民族であることが言える。この事は同じ出来事に遭遇した場合、日本人は「深刻」に考え、米国人が「偶然の出来事に過ぎない」と考え、アフリカ人は「これが悪い出来事なの?」程度の開きがある事を示唆している。 (単一民族の島国であるがゆえに強制される空気感) 日本人は、とかく空気感を重視する。それは、単一民族国家であることに要因があるのであろう。つまり、国全体は村社会でどこに逃げても同じ考えの人達しかいない。海外と異なり逃げ場に苦慮するのだ。さらに、諸外国のように自分達と全く異なる言語や習慣を持つ民族と常に争いごとを繰り返し、他民族の支配下におかれたこともないので自分たちの意見をはっきりいう事の大切さを奥のほうに追いやった。しかしながら、日本人のような単一民族が、これまで他国に攻められることが殆どなく、国の統治者が同一民族であることを踏まえると、本来ならおおらかな性格になるべきであるがそうなっていない。村社会の掟が他国と比べて想像以上に酷であったことの証であろう。 (不安遺伝子の多い理由) 日本人が不安感を強く抱くのは、遺伝子学から見れば古代の日本人の祖先のつらい記憶であり、それが現代人に引き継がれていると言える。では、このつらい記憶はいつの時代のものだろうか。今の人類の原型はアフリカで生まれ、そこ...

情報社会の代償 隣の芝生という厄介な存在 

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  初版 2023.3.11 (旧名:隣の芝生に振り回されない生き方こそ最良の生き方) 1.隣の芝生は人間の本能 人はなぜか、隣の芝生が青く見えるようである。どうもこれは人間の本能のようである。人は常にどこかで桃源郷があると信じて疑わない。だから他人に対して勝手というべき様々な妄想を抱いて喜怒哀楽を繰り返している。ドラマや週刊誌、映画,そしてインフルエンサーが煽り立てるような装飾され、誇張されたカッコ良い生活をしている人が常にどこかにいると信じて疑わず、そういった人たちへの憧れや羨望を抱こうとするように出来ている。        2.隣の芝生の幻想例  ①政治家  政治家は社会的には上流階級に位置する職業で、まさに隣の芝生である。しかし、そんな隣の芝生も今となっては、はっきりいえば苦労の割には見返りが少ない。一昔前なら、貴族の位を得られ、豪邸に住み様々な利権から得る膨大な富を得ることができたが、今では億ションにすら住めない、逆に豪華な生活をしていると賄賂を疑われお縄!となってしまう。仕事面では、4方から様々な意見を集約し意見調整を図りながら一つの指針を作り上げるという相当な労力と精神的な負荷を強いている。もはや、政治家という職業が好きでないとやってられない。 ②旧来型のエリート 大企業社員、医者、官僚、外資系金融や大手弁護士事務所の幹部等などのエリート職業もアッパーミドルの代表的な職業で庶民とは一線を画している。一昔前まではエリートとして大企業に入れば、それなりに出世し、それなりの報酬も得て、さらには子会社で役員級の役職に就いて会社人生の余生をおくる。まさにアッパーミドルの典型例のような人生であるが、今はこのような天下りが出来なく、給与面でも、天下りが減った分、人生後半の高給生活が遮断され、年を追って旨味が享受できなくなった。 ③セレブと言われる成功者  セレブと言われる超高所得者(芸能人やスポーツ選手、ベンチャー企業の創業者)なども隣の芝生の典型例である。これら人たちの共通点は実力主義の環境下で自分の力量を頼りに成功者と言われる地位まで上り詰めた事である。私たちは、雑誌やテレビで芸能人やスポーツ選手、事業の成功者などのセレブ生活や豪邸報道に対し羨望のまなざしを抱いてしまう。しかし、そこには成功者ならではの魑魅魍魎とし...

金持ちほど無益なトラブル(不幸)を上手に避けるものだ

(資産(幸福)を蓄積することの意味)  お金のあるなしの判断は収入に比例するのではなく、資産規模に比例する。お金のない人は、言い方を変えると資産を蓄積できない人から始まり、計画通りにお金を使う事が出来ない人、浪費癖のある人とグレードが上がっていく。こういった人は、大抵の場合、どんなに高収入であったとしても、お金の量に併せて自分たちの生活をグレードアップさせてしまうように頭が出来ている。だから、手元にお金は残りにくい。このため、心に余裕が出来にくくトラブルを誘いやすい。  このタイプが他人なら冷静に見ることもできるが、親族にいたら大変である。お金のある時は気前よく心強い人に見えるが、逆回転すると非常に厄介な人に変貌する 。 (お金が心の余裕を拡げる)  「金持ち喧嘩せず」という諺がある。そもそも多くの金持ちは、人間関係において、自分の意見を通したり、感情を表に出すことで不要なトラブルを起こすような事を好まない。それがどれだけ自分自身にとって無益な行為であるかを知っているからだ。  社会生活における強い人は、腕っぷしが強いとか声が大きいという人ではなく、どんな局面に対しても冷静に物事を進めていけるタイプに他ならない。つまるところ「辛抱強く。打たれ強い」人を指す。どんな仕打ちをされても、その人の悪口などを一切しないクールさを持ち合わせている人でもある。  お金持ちがこういう人だけとは限らないが、お金持ちは金をたくさん持つことで、社会的な不安や社会生活に横たわっている様々なしがらみ(束縛)は少なく出来る。また、心に余裕を持つことで、社会に横たわる様々な不条理への免疫力も高くなる。それがトラブルなどの不運につながる事柄への退避能力が高くなり、結果として幸運をつかみやすくなる。 (お金はストレスの耐性を強くする)  お金のない人は、社会的な不安や社会生活に横たわっている様々なしがらみに対しての逃げ場が乏しく、不安や抑圧にさらされやすい。このため、常に漠然とした不安に慄いたり、満たされない環境下での生活をおくることになる。その不安や不平不満を覆すように、対人関係において過剰な承認要求を求めたり、自己の世界観を他人に押しつけて説教がましくなったり、些細な事で興奮したり感情的になり他人との関係をギスギスさせてしまう。また、現実を直視できずに妄想や虚言癖を患ったり、他人に対して自分の都...

日本に漂う閉塞感の正体

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  これは私自身の勝手な思い込みなのかもしれないが、日本中に言いようのない閉塞感が漂っているような気がしてならない。それは年を追うごとに強くなっているようでもある。  人は無意識に以心伝心で相手の心と通信しているものだ。そのため、言葉を交わさなくても周りの人たちの不安な気持ちは空気感として伝わってくるものだ。 1. 経済は先進国 労働環境は後進国以下 コロナ禍によって、世界中でテレワークが拡がり在宅ワークが一般的になり始めたが、最近の通勤ラッシュ状況を見ているとライフワークバランスは形だけにすぎず、本当に先進国民の姿なのかと疑いたくなる。帰りの電車でも、神奈川、埼玉、千葉の郊外に向かう電車に乗るサラリーマンの哀愁漂う姿。特に、夜8時から10時に乗る列車内は、夜も遅いのに電車は込み合っている。そこには、仕事疲れというよりは35年ローンや子供教育費の重圧を背負いながら、ストレスを抱えて仕事にしがみ付こうとするサラリーマンの切ない哀愁が充満している。

アザケイ小説から日本社会の疲弊を読み取る

  この小説は、人々が薄々感じているがあまり語らないことを赤裸々に描いていると短編小説です。この小説から読み取れることは、普通に生きることのハードル年を追って高くなってしまい、意識高い系の高い人たちにまで及んでしまっているという日本社会の深刻な疲弊である。あざケイ文学から、こういった競争社会の負の歪を見せつけられたような気がしてならない。   ☆「ふぞろいの林檎たち」の現代版    この小説の前提にあるテーマは、一見社会的な勝者に見える人たちの虚像というべきものである。これは明らかに作者のレトリックで、 40 年前に「ふぞろいの林檎たち」というドラマと比較すると面白い。「ふぞろいの林檎たち」では学歴競争敗者の社会的な抑圧や挫折感を描いて反響を呼んだ。アザケイ文学は、「ふぞろいの林檎たち」の勝ち組の変遷を描いたと言えるであろう。そこには、バブル崩壊以降の日本株式会社という名門企業群の衰退によるエリートサラリーマンの幸福度の激減が描かれている。日本の子供たちは、旧来型のエリート像を追い求めるように受験競争をさせられる一方、その後は大学入学時と卒業時のイメージの乖離、一流企業に入社時とその後の生活イメージの乖離が続き、いつまでたっても思い描いていたイメージ像に届かず絶望する。そんな実態が浮かび上がってくる。   ☆必要条件を十分条件に勘違い。  人生 100 年時代にたかが 18 歳の受験の結果で人生の結果が決まるなんてナンセンスなのだが、これら優等生は一流大学に入ればその後の人生も悠々自適に送ることができると、特に地方出身の受験勝者は信じている。実際、一流企業などの就職数や役員も大学ランキングではトップクラスである。そんな情報を得て自分達もいつかはこのような地位まで上り詰められると思って社会に出る。まさに必要条件と十分条件を勘違いしているのだ。十分条件である泥臭さ、それは会社で奴隷のように重労働し、学歴云々隔たりなく周りにはいい人を演じ、上司に好かれるような態度を貫いていくことで少しずつ役職の階段を上り続けていく結果でしか役員昇進への光は差してこない。まさに苦労に苦労を重ねたうえでつかむ勲章なのだが、これら優等生は、まるで「課長島耕作」のような漫画タッチの軽さで人生を謳歌できると信じ込んでいる。そして社会に揉まれ...