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今後20年後を見据えた大学(辛口)戦略 その2

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 (都心一極集中が学生にもたらしたもの)  東京一極集中が1世紀に渡って続いている。これは地方の秀才を東京に呼び寄せて定住させる政策を100年に渡って行ってきたことにほかならない。それら人々の子供は都心の中高等学校に通い、都心の大学に通い、都心の企業に就職する。このサイクルを雪だるまのように100年近く続けてきた。優秀な子供は年を追って都心に集中することになり、これは大学偏差値の長期推移にも表れている。戦前、戦後に渡って名門かつ高偏差値であった地方大学の中には、過疎化とともに没落し、過去の栄光を忘れ去られている。 (都心に立地する大学の高偏差値化)  これは長年における偏差値分布の推移を見れば一目瞭然である。都心への一極集中の最大の恩恵を被った大学は早慶、そして次に続くのがたいした格を有していない中堅国公立(千葉大学や東京都立大学など)、そしてMARCHクラスの有名私立大学であろう。早慶などは高度成長期前までの中堅クラスの難易度から東大や一橋をあと一歩に迫るくらいに偏差値が上昇した。早慶おこぼれの受け皿になるMARCHも驚異的に上昇した。戦後において地方の金持ちが通うFランとも見間違える程度の大学のはずが、時が経つにつれ地方国立を追い越し、難関国立一歩手前の位置までの地位を確立した。千葉大や東京都立なども同じように、単に都心に大学を構えているから地方旧帝大と拮抗する偏差値を有している。 (「旧帝大」の横綱級の格式) 地方の過疎化により、地方国立大学の地盤地下は目に余るものがある。しかし、旧帝国大学はその影響を受けにくい。地方旧帝大は、東北なら東北6県の盟主(東大)であり、それは九州地方の九州大学、中部地方の名古屋大学においても同様である。これら大学の偏差値は旧帝大という冠に守られて難関大学の一角を維持し続けている。首都圏の国立である横浜国立大学、千葉大学などは偏差値では地方旧帝大と同ランクであるが、首都圏の進学校では、東京科学大学に届かなく、これら国立大学を合格できそうな学生に対しては地方旧帝大を進めるケースもある。格式という点では「旧帝大ブランド」はエバーグリーンであり、この先の少子化が深刻化しても、首都圏一極集中がこれ以上に進んでもMARCHクラスや都心部の中堅国公立が格式において地方旧帝大を切り崩すことは難しい。「 (社会人から見た大学序列)  高校卒...

今後20年後を見据えた大学(辛口)戦略 その1

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  少子高齢化による18歳人口の減少から、大学受験者の減少が危惧されているが、現在のところ女性の四大進学が大幅に上昇したことから何とか体裁を保っている。しかし、一定以上の学力を保持している層が大きく減少していることから、大学側は一般入試での偏差値低下を防ぐべく推薦入試に力を入れるようになった。その結果、上智や関学のように一般入試率が50%を切る大学が現れ、さらには、私立最高峰の一角である早稲田が推薦率を60%まで引き上げる公言をするに至っている。  一方、中堅以下の私立大学に至っては、推薦入学を大学の定員確保に利用し、いわゆるBF大学を増殖させている。 (軽量すぎる私立の一般入試)  受験業界では、国立大学が圧倒的に優位である。まず、試験問題のボリュームが全く異なり、難関と言われる国立大学に合格するためには、6教科9科目の難しい共通テストで7割以上の点数をとり、二次試験においても比較的難しい論述問題を解かされる。一方、私大の科目数は多くて3教科、今となっては、2教科や1教科すら常態化している。総合的な学力という点では、私立は国立に太刀打ちできない。そういう点では、難関国立大学からみたら、多くの私立大学は大学と呼べるものではない。 (私立の3教科入試こそ総合選抜)  国は、欧米に見習って受験者の能力の多角的に評価するという観点から総合選抜などの推薦入学を推進している。しかし、国立大学からすると、私立大学の入試自体が特定の科目に特化した推薦入試とも言えなくない。5教科でみるのではなく、得意とする1~3教科で勝負する選抜入試とも言える。とは言え、早慶はもとより、MARCHなどの上位私立大学は上位国立とそん色ない活躍をしている人も少なくない。平たくいえば、国語的な論述能力と社会科目全般に強ければ、社会の至るところで活躍できるという証明に他ならない。5教科全てに対して長けている必要はないということだ。 (早慶の少子化戦略)  今となっては、早慶ともに一般入試率が50%台である。約半数を推薦の対象にするとなると当然であるが、学生の人的リソースの低下を招くのは必須である。しかし、マンモス大学である早稲田は、たとえ6千人の非一般試験の学生を確保しても、残り4千人に対し学力の高い学生を集めれば、1学年あたりほんの1~2%の成功者を生み出せることに自信を持っているのであろう。1...

アザケイ小説から日本社会の疲弊を読み取る

  この小説は、人々が薄々感じているがあまり語らないことを赤裸々に描いていると短編小説です。この小説から読み取れることは、普通に生きることのハードル年を追って高くなってしまい、意識高い系の高い人たちにまで及んでしまっているという日本社会の深刻な疲弊である。あざケイ文学から、こういった競争社会の負の歪を見せつけられたような気がしてならない。   ☆「ふぞろいの林檎たち」の現代版    この小説の前提にあるテーマは、一見社会的な勝者に見える人たちの虚像というべきものである。これは明らかに作者のレトリックで、 40 年前に「ふぞろいの林檎たち」というドラマと比較すると面白い。「ふぞろいの林檎たち」では学歴競争敗者の社会的な抑圧や挫折感を描いて反響を呼んだ。アザケイ文学は、「ふぞろいの林檎たち」の勝ち組の変遷を描いたと言えるであろう。そこには、バブル崩壊以降の日本株式会社という名門企業群の衰退によるエリートサラリーマンの幸福度の激減が描かれている。日本の子供たちは、旧来型のエリート像を追い求めるように受験競争をさせられる一方、その後は大学入学時と卒業時のイメージの乖離、一流企業に入社時とその後の生活イメージの乖離が続き、いつまでたっても思い描いていたイメージ像に届かず絶望する。そんな実態が浮かび上がってくる。   ☆必要条件を十分条件に勘違い。  人生 100 年時代にたかが 18 歳の受験の結果で人生の結果が決まるなんてナンセンスなのだが、これら優等生は一流大学に入ればその後の人生も悠々自適に送ることができると、特に地方出身の受験勝者は信じている。実際、一流企業などの就職数や役員も大学ランキングではトップクラスである。そんな情報を得て自分達もいつかはこのような地位まで上り詰められると思って社会に出る。まさに必要条件と十分条件を勘違いしているのだ。十分条件である泥臭さ、それは会社で奴隷のように重労働し、学歴云々隔たりなく周りにはいい人を演じ、上司に好かれるような態度を貫いていくことで少しずつ役職の階段を上り続けていく結果でしか役員昇進への光は差してこない。まさに苦労に苦労を重ねたうえでつかむ勲章なのだが、これら優等生は、まるで「課長島耕作」のような漫画タッチの軽さで人生を謳歌できると信じ込んでいる。そして社会に揉まれ...