FIRE民の蓄財能力も「親ガチャ」で決まる
〇小室圭にみる日本社会の多様化 戦後の日本は、日本国憲法では以下に定められているように、本当の意味で階級社会からの解放に成功した。 第14条 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。 とはいえ、このような平等が根付いたのは戦後50年経過したバブル期を境にした頃であり、そういった権利を最大限に活用するもの現れた。その最たる例が、天皇家一族と結婚した小室圭であろう。戦前まで天皇家は神様の子孫として扱われ、日本人はその存在に対し畏敬の念にて崇拝していた。このため、天皇家の血を引くものは選ばれた人としか結婚できないと日本人は思い込んでいた。しかし小室圭は違った。彼の目には天皇家は血統付きの人たちに過ぎず、自分はそういった人たちと結婚する権利があることに疑いを持たなかった。戦後80年で日本の階級意識がここまで激変したことを物語る一例であった。 〇「親ガチャ」の出現 全ての人が小室圭かといえばそうではない。小室圭の母親は全ての日本人が平等感を味わえたバブル時代の日本人像である。その後は昔ながらの血統証付き一族の平民化が一層進むとともに、米国の実力主義に影響された金融面での格差が、新たな階級論になるまで拡大しており、世代間での逆転、そして新たな階層の固定化を招き始めている。 例として、ある人は、中学から慶應に入り一流企業に入社した。そして親もそれなりにお金持ちであり、相続も期待できる。それに比べ、自分は公立中高であり、大学もMarchクラスにも入れず、そのためブラックめいた三流企業しか入れず人生を苦労している。そして親にいたっても老後貧乏の真っただ中にいる。相続など到底期待できない。それより自分が親を援助しなくてはいけないほど金銭面でひっ迫している。 この手の格差は日常茶飯事であり、日本ではこういった状況を容易に打破できない社会に入りつつある。これに対し、世間ではこれに呼応するように「親ガチャ」というキーワードを発するようになった。 〇才能まで憲法で平等化できない 憲法上で平等を謳っても才能という点での平等は法律で規定する範疇ではない。このため、人は生まれた時点でほかの人と同じスタートラインに立っているのではなく、それは親から引き継