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政府が推進するインフレ・賃金上昇の脆弱性

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1.高度成長期のインフレ・賃金上昇の好循環  高度成長期のインフレは、収入と物価が連動していた。大学卒の初任給は毎年のように上昇し、年収も増えていった。例えば昭和45年入社の初任給は4万円弱。昭和50年入社は9万円弱。平均年収を見ると、昭和45年は94万円、昭和50年は203万円であった。わずか5年で年収が2倍に膨れ上がった。 住宅もこの頃は首都圏でさえも1千万円台が多かった。このため、若いうちに住宅を購入すれば、自分の年収に反比例するようにローン返済が楽になった。それだけでなく、購入した不動産価格が数倍、場所によっては十倍近くに跳ね上がった。まさに理想的なインフレ・賃金上昇の好循環であり、真面目に生きていれば報われる夢の時代だった。 2.バブル終焉と日本経済の成熟化  このような好循環も80年代バブル終焉とともに終わりを迎える。日本経済は成熟化とともにデフレを迎えることになる。年収に至っては1997年の500万円をピークに緩やかな下降を描いた。その一方、社会保障料が段階的に引き上げられ手取りベースでは相当な落ち込みを強いられることになった。  さらにGDP推移と賃金推移に目を向けるとGDP上昇に賃金上昇が追いついておらず、その恩恵は労働者ではなく企業利益(株主)に向かうようになった。これはアベノミクス以降に顕著となった。結果として、これら企業業績の好循環は投資家の懐を潤すことになり、それら層を中心に1億円以上保有する世帯が100万を超えるまでに膨れ上がった。 3.政府が夢見るインフレ・賃金上昇循環の脆弱性  政府は、この失われた30年を回避すべく、インフレ経済への移行を図っている。インフレ経済に移行できれば、貨幣価値の棄損により深刻な政府債務や社会保障費に対する実質的な負担を軽減することが出来る。一般人においても、住宅ローンなどの借金負担が軽減される等のメリットがある。  一方で、インフレは物価上昇を伴うので、賃金も同時に上昇しないと多くの家庭で生活が逼迫される。とはいえ、賃金上昇については、グローバル化の進展により欧米並みの利益水準を求められる企業にとって、事業利潤をダイレクトに労働者に振り向けられないこと。さらに、安易な賃金上昇はコスト競争力を低下させ、企業の海外移転を加速させてしまう結果となり雇用不安を引き起こすことにもなる。  現状では、日本経済がマクロ的

サイレント富裕層の台頭

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  1.資産格差の度合  日本は格差社会に入って久しいと言われるが。現実はそういう単純なものではない。今世界では、上位1%の資産総額が全体の4割弱を占めている。逆に下位50%の資産は全体の2%と言われている。これは貧富の差が激しい発展途上国を含めての数値だが、先進国だけに絞ったOECD資料では、上位1%の国内の富に占める比率は、 米国42%、ドイツ24%、英国20%、フランス19%、日本11% 上位10%の比率は、 米国79%、ドイツ52%、英国52%、フランス51%、日本41%  となる。  この数字を見る限り、米国の資産格差は臨界点に近づいており、国が分断化されているという議論についてあながち誇張したものではなさそうだ。一方、日本の格差は想定より大きくはない。さらに、これら数値は野村総研が毎年発表する資産ピラミッドとほぼ近い値なので信頼性もあるだろう。 2.富裕層の実態  ステレオタイプの金持ち像は立派な家に住み、生活も派手で豪遊しているイメージである。それは芸能人や成金に代表されるような高所得者像を描写しているに過ぎない。しかし、こういった人たちは総じて貯蓄が多くない。  逆に、質素でつつましく生活している人が裏では1億以上の資産を保有していることが少なくない。日本では、所得格差はあっても、手取りベースでの格差は圧縮されているため、このような逆転現象が起こる。ネットでも、株式等などで1億円以上を保有している人のブログが結構数あるが、そのほとんどは一般人以上の慎ましい生活をしている。このように、世間的な富裕層像と実態に何らかの乖離が横たわっているようだ。 3.社会的勝組=富裕層という誤解  統計値から見ても、近年格差が拡大しつつあるのは事実である。しかし、マスコミはそのターゲットをビジネスエリートに焦点を当てている。挙句には大企業社員や公務員を上級国民としてこき下ろしている記事もある。この構図の原型は、受験戦争の勝者→一流大学⇒一流企業→幹部社員→上級国民であり、そこには、庶民を犠牲にわが世の春を謳歌している姿を面白おかしく描いている。日本社会は、大学受験時に擦り込まれた洗脳が、一生にわたってコンプレックスとして尾を引いているようだ。 4 富裕層はどこにいるのか  これを具体的に暗示するのがドラマの変遷である。昭和初期までの富裕層像は華族等の有閑階級を題材にした

結婚を促進するには戦前の階級社会度復活しかない

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  婚活市場も、ここ20年でデジタル化へと大きな変貌を遂げた。その結果、就職の学歴フィルタの如く、相手のスペックを見て足切りを行いながら見合いをするということが当たり前になってしまった。  その足切りラインは、自分のスペック偏差値を顧みず、結果的にはスペック偏差値65を境に見合い相手を選んでしまっている。さらに悪いことに、男女ともにそんな行動に対し、スペック偏差値50の「普通の人」を選んでいると思って疑っていない。まさに、自分自身のスペック偏差値を見合い相手に求めるスペック偏差値にミスマッチを起こしているのだ。 男女間に漂う求める結婚相手のミスマッチ  女性は、男性に一定以上の学歴と年収などの生活力を最低限の基準として求めながら、さらに一定程度の容姿スペックを求めてくる。  男性は、女性に対し若さと可愛らしさ、そして物事に対する従順な優しさを求めてくる。  単純にいうと、これらレベルはドラマに出てくる脇役俳優や女優が演じる一般人役像である。主役ほどイケメンや美女ではないが、合格点に達するレベル。それを普通と定義する。しかし、脇役であれドラマに出てくる俳優や女優の容姿スペック偏差値が65以上であるということを認識せず、どこにでもいる普通の人と勘違いしてしまっている。  そして、いつかはそんな人と巡り合えるのではと勘違いを続けながらいたずらに年を重ねているのである。 自分自身ぼスペック偏差値を客観的に見ることが出来ない。  そもそも、サラリーマンで標準以上の年収を得られる人は少ない。自分が標準以下の年収なら、男性の方も相手のスペック偏差値を下げるべきである。しかし、スペック偏差値を下げても実際は60程度までしか下げていない。このため、いつまでたっても相手側の女性から拒否され続けることになる。それは女性も同じで、自分自身が思っているスペック偏差値と相手側から見たスペック偏差値に乖離があることを絶対に認めようとしない。  その一例として、この厳しいビジネス競争社会で女性側が希望する専業主婦が男性にとってどれだけ重荷になるかという事を理解していない。男性が人生をかけて相手を大事にして、守ってあげるという事は相当な覚悟が必要になる。ところが相手側の女性が、高度成長期の親世代を前例にそれを当たり前としか思っていない。  もし、それを望むなら、男性側はその見返りとして、女性に若さと

バーチャル婚が当たり前になる時代(社会動向)

初版 2022.10.14 (旧タイトル;少子高齢化と財政破綻) 1.歯止めの利かない人口減少 1980年代までは、日本だけでなく世界中で人口爆発を危惧していた。多くの人がこれ以上に人口が増えすぎては困ると思っていた。ところがバブル崩壊を境に、日本人は次第に結婚をしなくなり、そして子供を産まなくなった。これは、バブル崩壊後の不景気という一時的な現象ではなく、年を追うにつれ深刻なものとなり状況は悪化の一途を辿っている。こういったことに、政府も手をこまねいているわけではなく少子化対策を打っているが、今となっては焼け石に水である。それは政府が悪いのではない。お隣の韓国や中国、そしてシンガポール、香港、台湾などは日本以上に深刻な少子化に陥っている。さらに、タイなども同じような少子化に陥ってきた。これは、この100年に起きた社会構造の変化の歪によるものといえ、ちょっとやそっとの政策を打ち出してもどうにもならないところまで行きついているからである。 2.女性が子供を産むメリットが見いだせない 少子化の原因は女性の社会進出に対しての旧来以前の社会構造のギャップにある。 ・女性の高学歴化が顕著になったことで、彼女らの自己実現が出産適齢期と重なってしまう。このため、出産時期を逸してしまう。 ・一方、共働きで子供を育てることは、その女性に対し、20年近くにわたって子供に人生を捧げるだけでなく、5才くらいまでは保育園で絶えず移される風邪などの病気との闘い。病気でも預けられる特別施設をさがし、又はその日だけベビーシッターを雇ったりするなど、365日24時間、子育てと戦う毎日を強いられる。多くの場合、このほとんどを妻が背負うことになる。さらに費用面では、託児所や学童保育などでほぼ一人分の収入が出ていき、中学から大学までは膨大な教育費負担など巨額な出費が待ち構えている。さらに子供のいる家庭ほど、子供の友達との釣り合いも考慮し、一軒家やマンションの購入をせざるを得ない。これらを賄うためには、夫の給料だけでは不十分であり、一定以上の収入を得るために長く会社に居続ける事になり、子供を育てながら周りの男性と同じような成果を上げなくてはいけない。それに解放される頃には50代、遅ければ60代を迎えるが、今度は老後資金の確保が重要な課題となってしまう。 こんな戦場のような毎日を20年以上も続ければ、家には二

高齢者間の経済格差の深刻さ!

  高齢者が働きながら年金を受け取る場合、収入と年金を併せて50万円を超えたら、その超過部分だけ年金額の支給がカットされる仕組がある。  この制度は、カットされた年金分だけ後日年金額として加算されることはなく、超過分を国にプレゼントする非常にドライな制度でもある。   では、このような高齢者(65歳以上)がどれだけいるのだろうかというこことになるが、政府資料によると、65歳以上で働いている人は550万人超で正社員が130万人程度。そして、仕事しながら年金を受けている人が300万人、その中で50万円以上(年金+収入)者が50万人。65万円(年金+収入)以上が25万人と結構な人数となっている。  なお、これは在職年金を受け取っている人だけの数字であり、大企業役員や団体理事などは1000万円を軽く超えてしまうので年金など必要なく受給年齢を繰下げしている。そのため、50万円以上の収入を得ている高齢者(65歳以上)はこの数字よりさらに数万人上乗せされることになる。  バブル崩壊後、多くの企業で人件費の高い50代を大量リストラし続けて社会不安を起こしてきたが、マクロ的な指標でみれば550万人以上の高齢者(65歳以上)が働いている事実はプライドさえなくせば、今の日本には働く場所がいくらでもあるということだ。  単に、都心の一等地にオフィスを構え、ほどほどの収入を得ながらホワイトカラー的な仕事をしている層が、高齢になるにつれその経歴に見合う仕事を見つけられず仕事探しに苦労している実態をマスコミなどが誇張しているにすぎない。  一方、これらホワイトカラーの中で定年以降も働くことが出来た人たちが、この年金制度カットの対象組になっているのは間違いなく、年収という点見れば一目瞭然となる。65歳以上の平均年収(正社員)は65~69歳で約309万円、70歳以上で約286万円。55~59歳の平均年収が約444万円であることを考えると、極端な減額となっていない。つまり、これら高齢者は、その分野において基幹的な仕事をしてきた人、または、定年後も有利な条件で雇用を延長している人たちであると推測される。恐らくであるが、これは事務系ではなく技術系の半ホワイトカラーがその大半を占めるのであろう。  このように高齢者の収入格差は現役世代よりはるかに大きいことが分かる。日本社会には、年金を含めて50万円以上の収

アザケイ小説から日本社会の疲弊を読み取る

  この小説は、人々が薄々感じているがあまり語らないことを赤裸々に描いていると短編小説です。この小説から読み取れることは、普通に生きることのハードル年を追って高くなってしまい、意識高い系の高い人たちにまで及んでしまっているという日本社会の深刻な疲弊である。あざケイ文学から、こういった競争社会の負の歪を見せつけられたような気がしてならない。   ☆「ふぞろいの林檎たち」の現代版    この小説の前提にあるテーマは、一見社会的な勝者に見える人たちの虚像というべきものである。これは明らかに作者のレトリックで、 40 年前に「ふぞろいの林檎たち」というドラマと比較すると面白い。「ふぞろいの林檎たち」では学歴競争敗者の社会的な抑圧や挫折感を描いて反響を呼んだ。アザケイ文学は、「ふぞろいの林檎たち」の勝ち組の変遷を描いたと言えるであろう。そこには、バブル崩壊以降の日本株式会社という名門企業群の衰退によるエリートサラリーマンの幸福度の激減が描かれている。日本の子供たちは、旧来型のエリート像を追い求めるように受験競争をさせられる一方、その後は大学入学時と卒業時のイメージの乖離、一流企業に入社時とその後の生活イメージの乖離が続き、いつまでたっても思い描いていたイメージ像に届かず絶望する。そんな実態が浮かび上がってくる。   ☆必要条件を十分条件に勘違い。  人生 100 年時代にたかが 18 歳の受験の結果で人生の結果が決まるなんてナンセンスなのだが、これら優等生は一流大学に入ればその後の人生も悠々自適に送ることができると、特に地方出身の受験勝者は信じている。実際、一流企業などの就職数や役員も大学ランキングではトップクラスである。そんな情報を得て自分達もいつかはこのような地位まで上り詰められると思って社会に出る。まさに必要条件と十分条件を勘違いしているのだ。十分条件である泥臭さ、それは会社で奴隷のように重労働し、学歴云々隔たりなく周りにはいい人を演じ、上司に好かれるような態度を貫いていくことで少しずつ役職の階段を上り続けていく結果でしか役員昇進への光は差してこない。まさに苦労に苦労を重ねたうえでつかむ勲章なのだが、これら優等生は、まるで「課長島耕作」のような漫画タッチの軽さで人生を謳歌できると信じ込んでいる。そして社会に揉まれて十分条件というもの存在が分かるように