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投資家視点の戦後経済(5)いざなぎ景気 (1965~1971)

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1.高度成長期の最終章  日本経済は、証券不況の後、高度成長期の最終コーナーに相当するいざなぎ景気を迎えることになる。これまでの景気は、敗戦の焼け野原から先進国の階段を上る過程での設備投資主導型の好景気であるのに対し、いざなぎ景気の特徴は、これら設備投資による技術革新が実を結び輸出主導型の経済に移行したことである。このため、かつてのように景気過熱による外貨減少を意識する必要がなくなり、日本は強固な経済を確立することができた。消費面においても、新3種の神器(マイカー、エアコン、カラーテレビ)の需要が発生しただけでなく、流通業界ではアメリカ式のチェーンストア理論の影響を受け、町中にいわゆる「スーパー」が生まれ店舗の大型化が進んだ。その大量消費を支えるために物流業も飛躍的に発展することになる。このようにして庶民の生活に物が溢れるようになり、日本は「一億、総中流」の時代に突入する。 この間の実質 GDP の成長率は、 1963 年 10.6%   1964 年 13.3%   1965 年 4.4%   1966 年 10.0%  1967 年 13.1% 1968 年 14.3% 1969 年 12.1% と証券不況により 1965 年は大きく落ち込んだものの、 1966 年に回復し、それ以降2桁の第二次高度経済成長期を迎えることになる。 2.比較的な平穏な株価 いざなぎ景気は、実質成長率が 10% を超えてはいたが、株価は比較的平穏な上昇に終始した。実際、日経平均は、前回の景気過熱( 1961 年)時につけた 1800 台の高値を越えるのに 8 年弱の歳月を費やすことになる。逆な言い方をすれば、 1961 年の高値こそ、その頃の株式市場としては実態とかけ離れていたバブル値であったことは否めない。いざなぎ景気では、証券不況も影響して、 65 年の 1100 台からスタートし、約 6 年間の歳月を か けて 2 倍強の上昇をすることに留まった。   3.先進国としての成熟化に舵を切る日本経済 いざなぎ景気は、貿易黒字による外貨の流入を防ぐ目的での景気抑制、インフレ抑制による公定歩合の引き上げ等で終焉を迎えることになるが、国際収支は以前にも増して強含みとなり、過去の景気停滞局面とは一線を画すようになっていた。 この頃から、 GDP など様々

長期金利上昇基調を占う(日銀国債引受の限界を探る展開)(その他) 

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  初版 2022.06.17  改版 2022.12.25  バブルが崩壊して30年が過ぎた。日本政府は、バブル崩壊を食い止めるべく、さまざまな要件で国債を刷りまくり、この間に日本の債務残高は驚くほどに膨れ上がった。それに呼応するように、90年代中頃から日本国破産というキーワードがオオカミ少年のように出ては消えてを繰り返してきた。 1、アベノミクスの功罪  アベノミクスのリフレ政策は、デフレに苦しむ日本にとって一定の効果を与えた。本来なら超インフレを誘導するような過激な金融緩和のはずが、深刻な少子高齢化による景気下押し圧力と相殺され、毒薬のかなりの暴走懸念を相殺していた。  そもそも、このような金融緩和は日本経済に体力があった1990年代、遅くても2000年代前半にすれば経済が暴走した政策だった。アベノミクスの政策は、制度疲労をおこしている箇所にメスを入れず、金融緩和でひたすら日本市場を再生しようとした。これ自体は間違いがないのだが、今度は日本国としての金融政策余地がどこまで残っているかに焦点が当たってしまう。 2.臨界点に近づく債務残高  日本経済にバッファがあるときは、政府の歳出によって債務が膨大に膨れ上がっても何の影響もなかった。しかし、今の日本は、超高齢化と国際競争力の低下でそのバッファは年々低下し続けている。そんな中で、政府は国内経済の安定化を保つために、様々な公共サービスを赤字国債に依存せざるえない状況にある。このような政府債務の増大を日銀が肩代わりするように日本国債買入れをしている。この状態をいつまで続けられるかが問題だ。 3.今後の債券金利の動向  国債市場の金利は、政府債務の膨張による金利上昇懸念から市場に任せられなくなり、完全に日銀のコントロール下になってしまった。今時点では、日銀の無制限買い取りにより0.25%以上に上昇しないようになっているが、逆にこれが異常な円安を誘導しているが、政策金利は黒田総裁退任をきっかけに0.5%⇒0.75%と段階的に引き上げていく事が予想される。(注)黒田総裁は、在任中の12月20日に10年物国債を0.5%まで容認した。) その一方、金利上昇は、国債の利払い膨張を意味するので、日銀は利払い膨張を防ぐようにさらなる国債購入を余儀なくされる。それだけでなく、住宅や教育などの様々なローン金利にも影響することになる。

投資家の最後の楽園 (インド)  (相場(国別)の予測分析)

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  1.インドを考える  インドは、その人口が14億人近くに昇る大国という位置づけでなく、人的リソースにおいても世界有数のレベルを誇る国です。しかし、現状においては一人当たりのGDPが3000ドルに満たない発展途上国にすぎません。その理由としては、①カースト制が近代経済への移行を阻害している。②世界中を見渡しても類を見ない多民族国家で単一民族である日本のように国民全体が団結して発展することの困難なこと。などが挙げられます。そんなインドにもじわりと現代資本主義の潮流が浸透し、長きにわたる眠りから目を覚まそうとしております。  そもそも、インドの歴史を紐解くと、インドは長きに渡って世界の大国の位置にいました。むしろ現在のような停滞こそほんの僅かな期間でしかありません。この点ではかつての中国も同じような境遇でしたが、ここ30年で往年の立ち位置にまで回復しております。同系列の大国であったインドも、当然ですが同じようなリバウンドは期待されても可笑しくありません。 2、インドと中国の比較 現状では、インドは中国に大きく後れを取っていますが、これは一歩先に中国が発展した裏返しです。しかし、中国を含め世界中が少子高齢化の波に飲み込まれる中、インドは平均年齢が28歳と若く、これからその強みを発揮していくことが期待されています。ちなみに日本の平均年齢は48歳です。(これでは、日本という国の活力が失われるのも頷けます。)さらに中国と比べ一人あたりの所得が相当低いこともあり、中国がかつて歩んできた衣料や絹製品など特定の製造業の製造拠点としての役割が期待されそうです。  3.インドの未来予想 ① インドの発展形態  たとえ人件費の優位性があったとしても、インドは中国のように世界の工場としての役割を担うのではなく、特定の業種に対してのみ製造業としての強みを発揮するものと思われます。それより、インドはIT分野での発展が期待されます。それは米国のIT産業におけるインド人の活躍からも見て取れます。そんな優秀な人材の一部がインドに帰国し、自国のIT分野の発展に貢献する。これが現実的な発展形態にも思われます。さらに都市部に世界中のマネーが入り込み、未曾有の不動産開発が起こる可能性もあります。それが廻り廻って不動産価格のバブルを引き起こして、国力を高めていく。不動産投資で潤った中間層が購買意欲を高

投資家視点の戦後経済(4) オリンピック景気と証券不況 

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 1.岩戸景気の終焉 (1961 ~ 1962) 岩戸景気によって実質国民総生産は 1959 年 17.5 %、 1960 年 13.3% 、 1961 年 14.4% 増加したが 、 所得倍増計画ブームによって輸入が増加する一方で、海外は不況で輸出が伸びず国際収支は悪化した。日銀は公定歩合の 引上げによる金融引締めに政策を転換し、7月と 9 月にも公定歩合が引き上げらたことで、日経平均は同年 12 月に 1258 をつけるまでに落ち込み、岩戸景気は終焉をむかえた。その年の経済白書の中で「成長要因変化による日本経済の転換期が訪れた」と書かれた。 2.オリンピック景気 (1962 ~ 1963) 1962 年夏には米国の景気上昇の手助けもあって国際収支は回復した。さらに、東京オリンピック開催に伴う設備投資が盛んになり、東海道新幹線や首首都高速道路などのインフラ整備や国立競技場、日本武道館などの会場整備による建設特需は国家予算の 3 分の1( 1 兆円)を費やし、オリンピック景気に沸いた。さらに、3回にわたる公定歩合の引き下げも加わり、日経平均株価は、 1963 年 3 月末には 1600 台を回復した。 3. 証券不況 (1963 ~ 1965) 63 年 7 月、国際収支の赤字に苦しんでいた米国は、ケネディ米国大統領が金利平衡税(アメリカ人が外国株式を取得したとき、税率は一律 11.25% を課す)の創設を議会に提出した。 60 年~ 63 年に渡って多くの外国人投資家が日本市場に参入していたことから、株式市場は大暴落( 8,1% の下落)し、一時 1400 台を割った。大蔵省は暴落した市場を立て直そうと、 64 年 1 月に市中銀行 18 社の出資による日本共同証券」を設立し、 1964 年 3 月から 65 年 1 月まで、合計 1905 億円の株式を株式市場から買い入れた。これ は、当時の株式時価総額の 2.5 % 程度に相当する。さらに証券業界は、 1965 年 1 月に証券業界によって日本証券保有組合(民法上の任意組合) が設立した。日本証券保有組合は 1965 年 1 月から 7 月まで、証券会社から 501 億円、投資信託から 1827 億円( 当時の投資信託の時価総額の 23%) の株式を買い入れた。それらの資金

投資家視点の戦後経済(3) 神武景気と岩戸景気 

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1.数量景気と神武景気 (1954 ~ 1957) 金融引き締め策で停滞していた経済は、 1954 年中頃には、世界的な好景気に支えられ、海外向けの輸出が大幅に増え、 1955 年の国際収支は 535 百万ドルの黒字を記録した。 そして、1人当たりの実質GNPが戦前のレベルを超えたことが、白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫のいわゆる〈3種の神器〉などの 耐久消費材の普及に繋がった。 1956 年には、 第二次中東戦争によって国際商品相場や海上運賃が高騰し、 国際収支は前年の 8 割増を記録したことで 空前の設備投資ブームが起き、鉱工業生産、農業生産、国民所得がいずれも 2 桁の伸びを記録した。 こういった状況を受けて、 1956 年 度経済白書では「もはや戦後ではない」と明言するまでに至った。 しかし 、民間産業の旺盛な設備投資意欲は、原材料や高性能の生産設備の輸入を増加させ、 国際収支は 38 百万ドルにまで減少して 外貨不足に陥った。 政府は国際収支の悪化を食い止めるべく、 1957 年春に2度にわたって公定歩合を引き上げ たことで、資金の流れが悪くなり内需不振に陥った。さらに 国際商品相場と海運運賃の下落から輸出が低迷し、 6 月に神武景気は終焉を迎え、なべ底不況に突入した。 この好景気は、 1954 年 12 月から 1955 年までは、数量景気とも呼ばれたが 1957 年 6 月まで、約 31 か月に渡いた事と 、日本の歴史上、経験したことのないほどの好景気という意味も込めて、神武景気と名づけられた。この景気の特徴は、経済の過熱によるインフレを伴わなかったことから、 日経平均株価も朝鮮動乱と比べ緩やかな上昇となり、 1957 年 5 月に 595 円のピークを付けるに留まった。     2.なべ底不況 (1957 ~ 1958) なべ底不況は、設備過剰による在庫の急増によってもたらされた内需不振で、 業種別では電力・陸運業などの一部を除き全面的に業績が低下、減配・無配になった企業が目立った。一方、成長産業である電機、精密、自動車産業などへの影響は軽微であった。 1958 年の経済白書では「なべ底論」を採用し、「不況は中華鍋の底をはう形で長期化する」という見解を示した。しかし、 1958 年から 3 回にわたる公定歩合の引き下げによ

投資対象として韓国、台湾を考える (相場(国別)の予測分析)

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  1.東アジアとしての韓国、台湾  近隣の韓国、台湾などについては、30年前までは日本が圧倒的な経済力を有していたため、中国は発展途上国、韓国、台湾は中所得国程度の扱いであった。最近は韓国と台湾はほぼ日本と同レベル、そして中国は世界第2位の経済大国にまで成長し、日本の影が薄くなってしまった。そういった意味では、韓国や台湾は投資家目線で投資対象かを分析してみよう。 2.韓国、台湾の躍進  韓国、台湾の躍進は、バブル崩壊後の日本の長期低迷と符合が一致し、電子産業における日本の地位低下と共に台頭してきた。その理由を挙げてみると、  ・国内生産がコスト高となった日本企業の主要な海外生産拠点であったこと。  ・日米経済摩擦による米国からの圧力に乗じて、韓国、台湾企業が日本の技術を吸 収しやすい土壌があったこと。日本政府もそれを黙認してきたこと。  ・高度成長期の成功体験をひたすら追い求める日本企業に対し、韓国や台湾企業は日本から仕入れた技術を米国流の経営手法を導入し事業を拡大したこと  などがある。 3.韓国企業の躍進  厳しめな言い方をすれば、韓国は常に日本を見ながら行動を起こしている。そのせいか韓国の優位性のある産業は、それ以前は日本が優位性を持っていた産業である。このため、当初は日本企業で干された優秀な技術者等からの技術移転での躍進が中心であったが、韓国の通貨危機以降は、米国流の経営手法に移行し、日本企業経営のダメな箇所を逆手にとるようになった。それによりサムスンやLGなどが日本のソニーやパナソニックなどに代わる世界ブランドに成長し、自動車では現代自動車が日本の大手自動車メーカーを凌駕するまでになった。 この為、韓国企業に関しては、日本がその企業文化や経営を変えない限り、いつの間にか肩を並べられる構図になった。 4.台湾の躍進 台湾の躍進も韓国同様にその源流は日本企業にある。台湾の電子立国はそもそも日本の電機産業のお家芸であった。特に半導体は80年から90年にかけて日本が世界のシェアを独占したにも関わらず、いつの間にか台湾企業に入替っていた。それは単純な技術移転ではない、台湾企業が米国的な経営にシフトしていたのと、ダウンサイジングの波に乗り、日本人の考えが及ばない方法で、ローコストで製品を作ることができる中華系企業ならではの強みが発揮できたからだ。 5.人口減少と

ベトナムと高度成長期の日本の比較 (相場(国別)の予測分析) 

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(1)ベトナムという国の輝き  日本人は、どこかで東南アジアに望郷の念を抱いている。彼らの容姿はどことなく日本人と似通っているようで気質がちょっと違っている近くも遠くもある距離感。そしてバイクの騒音など日本がかつて経験した高度成長を思わせるような躍動感に包まれた懐かしい社会。そんな東南アジアにも近代化の波が押し寄せて、成熟化の波が押し寄せている。今となっては東南アジアに街も日本の都会と変らなくなっている。そんな中でベトナムは残り僅かな成熟化までの段。日本人の望郷の念を楽しめる国の一つである。 (2)ベトナムと日本の比較  かつてはタイやマレーシアが日本の高度成長期と同じ雰囲気を漂わせていると言われていたが、次第に「中所得国の罠」に陥って先進国入りには至っていない。先進国とは別の方向で成熟化に向かっていった。そうしているうちに、今度はベトナムが日本の高度成長期に似ていると言われるようになった。その真意を探るべく、それを見比べるために、高度成長期の日本とベトナムの比較表を作ってみた。   これをみる限り、高度成長期のベトナムと日本を重ね合わせるには無理がある。そもそも、高度成長時代の日本はベトナムやタイのような発展途上国ではない。 日本のGDP水準は、 順位入替要因 GDP順位 1950年 第7位 1955年 インドを抜く 第6位 1960年 カナダを抜く 第5位 1966年 フランスを抜く 第4位 1967年 イギリスを抜く 第3位 1968年 ドイツを抜く 第2位 1980年代後半 米国に近づく 第2位 であり、マスコミは「欧米に追い付け追い越せ」と発展途上国気取を煽っていたが、日本は戦後一貫して経済大国であった。ベトナムとは前提が全く異なるのである。  では、ベトナム経済が爆発的に成長してGDP総額が世界10位以内に入れるかという事だが、私はそういった見解に懐疑的である。これから20年を経過しても、ベトナムは先進国企業の生産拠点であり、ベトナム発の世界ブランドは席巻するとは思えない。そういう視点で眺めていくと、ベトナムは、タイやマレーシアの経済成長を参考にしたほうが精度の高い予測ができそうだ。 (3)ベトナムの未来予想  ベトナムの経済成長が今後どのような方向に進んでいくかについて、以下を参考にして