投資家視点の戦後経済(4) オリンピック景気と証券不況
1.岩戸景気の終焉(1961~1962)
岩戸景気によって実質国民総生産は1959年17.5%、1960年13.3%、1961年14.4%増加したが、所得倍増計画ブームによって輸入が増加する一方で、海外は不況で輸出が伸びず国際収支は悪化した。日銀は公定歩合の
引上げによる金融引締めに政策を転換し、7月と9月にも公定歩合が引き上げらたことで、日経平均は同年12月に1258をつけるまでに落ち込み、岩戸景気は終焉をむかえた。その年の経済白書の中で「成長要因変化による日本経済の転換期が訪れた」と書かれた。
2.オリンピック景気(1962~1963)
1962年夏には米国の景気上昇の手助けもあって国際収支は回復した。さらに、東京オリンピック開催に伴う設備投資が盛んになり、東海道新幹線や首首都高速道路などのインフラ整備や国立競技場、日本武道館などの会場整備による建設特需は国家予算の3分の1(1兆円)を費やし、オリンピック景気に沸いた。さらに、3回にわたる公定歩合の引き下げも加わり、日経平均株価は、1963年3月末には1600台を回復した。
3.証券不況(1963~1965)
63年7月、国際収支の赤字に苦しんでいた米国は、ケネディ米国大統領が金利平衡税(アメリカ人が外国株式を取得したとき、税率は一律 11.25%を課す)の創設を議会に提出した。60年~63年に渡って多くの外国人投資家が日本市場に参入していたことから、株式市場は大暴落(8,1%の下落)し、一時1400台を割った。大蔵省は暴落した市場を立て直そうと、64年1月に市中銀行18社の出資による日本共同証券」を設立し、1964 年 3 月から65年1 月まで、合計1905億円の株式を株式市場から買い入れた。これ は、当時の株式時価総額の 2.5 %程度に相当する。さらに証券業界は、 1965 年 1 月に証券業界によって日本証券保有組合(民法上の任意組合) が設立した。日本証券保有組合は 1965 年 1 月から7 月まで、証券会社から501億円、投資信託から 1827 億円( 当時の投資信託の時価総額の 23%)の株式を買い入れた。それらの資金のうち、2156 億円は日本銀行が日本証券金融を通じた貸出として供給したものであった。
1964年9月期決算で,全国証券業者は264億円の赤字を計上した。特に山一証券の1965年3月末の赤字は,資本金80億円に対して282億円にのぼった。1965年5月下旬,
山一証券の経営危機が明らかになる
政府は信用不安の発生を回避するため,日本銀行法第25条を発動して,無担保,無制限の日銀特融を山一証券に行った。一方、実体経済も深刻な不況に陥り、1964年にサンウエーブと日本特殊鋼、1965年に山陽特殊製鋼が倒産した。
4.政府の不況対策(1963~1965)
金融引締め政策は1964年12月の預金準備率引き下げ、1965年1月、4月の公定歩合引き下げと段階的に解除された。さらに6月には景気立ち直りの環境を整えるため公定歩合がさらに引き下げ戦後最低の水準になり、市中銀行に対する貸し出し増加額規制(窓口規制)も廃止した。
一方国際収支はこの間にめざましい改善をみせた。経常収支は、1964年10~12月期から黒字に転じ、1965年4~6月には輸出は前年同期を3割以上も上回った。
一方財政面では、先行き税収不足が見込まれることを考慮して、6月初め予算の1割留保を決定した。しかし、金融を緩和しても不況の進行がやまないので、7月になって、公共事業の促進、1割留保の解除、財政投融資計画の増わく、国債発行の準備等が決定された。政府は、公定歩合を3度引き下げることで景気を回復させようとしたが主だった効果がえられず、総需要政策に舵を切って、戦後初の赤字国債の発行に踏み切った。
これにより、景気は回復し、いざなぎ景気(1965~1971)に突入する。
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