投稿

ラベル(投資家視点の戦後経済史)が付いた投稿を表示しています

投資家視点の戦後経済(8) 政策金利20%の未曾有のインフレ退治とレーガノミックス((1981-1985)

イメージ
  1.米国の深刻なインフレとボルカーショック 第一次石油ショックが一段落した後も、米国経済はベトナム戦争の戦費調達による財政赤字拡大で、インフレが高止まりしていた。このため西欧各国は、金融を引締めすることでインフレを抑制しようとしたが、第二次オイルショックの襲来でインフレはさらに猛威を振るった。実際、 1976年の消費者物価(+4.9%)に対し、1978年は(+9%)、1979年は第二次オイルショックの影響で(+13.3%)まで上昇し、米国経済はそれ以降80年代初頭にかけて2ケタの激しいインフレに見舞われることになる。 1979年秋に、ポール・ボルカーがFRB議長に就任し、ボルカーショックと言われる「新金融調節方式」(通貨量をFRBが直接コントロール)を採用し、米国の金利は12%台から、翌80年2月は16.5%、翌81年には20%まで引き上がった。  この空前の高金利により失業率は 11%まで上昇し、米国は深刻な不況に陥った。しかし、同時にインフレも鎮静化し1983年には消費者物価が10%近く下がり、+3%近辺で推移するようになった。 2.レーガノミックスによる米国経済再建 米国経済は、日本やドイツの台頭により、もはやかつての華やかな栄光を失っているように見えた。レーガン大統領は 1981年に弱体化した米国経済を建て直すために「レーガノミックス」を打ち出し、   (1) 歳出の大幅な伸びの抑制 (2) 大規模な減税 (3) 政府規制の緩和 (4) 安定的な金融政策 を掲げた。いわゆる「小さな政府」を目指し、ケインズ政策ではなく「サプライサイド」政策に転換した。金融政策はボルカー議長の高金利政策でインフレを鎮静化させた。さらに高金利政策はドル高を維持する「強いドル」政策を支えたが、これは米国企業の海外移転を促し、米国国内の産業空洞化をもたらすことになる。また、日本、ドイツからの輸入量を膨らますことになり米国の貿易赤字は大きく膨らんだ。 一方、財政面では、政府支出の切り詰めで歳出は小さな伸びで推移したが、大規模な減税を実施することで歳入が大きく減少した。米国の財政赤字は、 1981年は(-)790億ドル、1983年は(-)2070億ドルにまで膨らんだが、大規模な減税は消費意欲を喚起し、米国経済は回復基調に向かうことになる。 3. 日本政府の財政再建と景気回復 一方、日

投資家視点の戦後経済(7)二度に渡る石油ショック(1976-1981) 

イメージ
  1.国際収支の不均衡と円相場の急騰 日本経済は第一次オイルショックで1974年には戦後初のマイナス成長に陥った。その後も内需産業の回復力は弱いままで国内景気は停滞気味であったが、輸出企業の技術的競争力の向上が貿易収支を大幅黒字にさせ、経済成長率は1975年3%弱、1976年4%を記録した。一方でこの黒字超過が円高の誘導を加速し、1976年に1ドル300円だったドル円レートが1978年10月には1ドル=175円を記録することになる。米国のカーター米大統領は、急激なドル安は米国内のさらなるインフレを加速させることに危機感を抱き、同年11月にドル防衛策を打ち立て、1ドル260円までに戻すことになる。しかし、日本国内では、このような円高騰が、輸出業者の利益率を低下させることになり、貿易収支に関わらず日本国内の景気は「円高不況」に向かった。 2.日本企業の国際競争力 日本に対する過剰な貿易黒字の対抗策として、先進諸国は日本製品の輸入規制が敷く一方、農産物などについて日本市場への開放を迫った。それでも国際収支の不均衡は解消されるどころか貿易黒字は拡大される一方で、1978年の国際収支は206億ドルもの黒字を計上する。この77年時点での輸出の上位3品目は、自動車(128億ドル),一般機械(110億ドル),鉄鋼(105億ドル)で、かつての「輸出御三家」のうち船舶は82億ドルと圏外に去った。日本車は、性能,耐用性,欠陥発生頻度の低さ,修理費の低さ,信頼性,デリバリーの迅速さが購入者に評価され、一般機械は高加工度の機械類(腕時計、ビデオ・テープレコーダー、カラーテレビ)を中心に増え、日本の技術競争力を見せつけた。鉄鋼は最新設備導入による価格競争力が寄与した。米国は、鉄鋼やカラーテレビの輸出に対する自主制限を求めてきた。その一方、円高によって日本の賃金水準は欧米にかなり近づいた。このため、投入コストでは採算が合わなくなり、海外に生産拠点を移転する動きが進み始めたのもこの頃であり、日本国内の産業構造が静かに変化し始めた。 3.福田内閣の経済政策 65年5月佐藤総理は福田赳夫を大蔵大臣に任命し、均衡財政の放棄に強い抵抗感を抱く大蔵省幹部に戦後初めての赤字公債発行を認めさせ、65年の証券不況を乗り切った。1975年の三木内閣では、オイルショック後のマイナス成長で税収不足に苦しむ日本経済に対

投資家視点の戦後経済(6)ニクソンショック、列島改造論、石油ショック(1971~1975)

イメージ
  1.高度成長期の終焉 いざなぎ景気は1969年後半にピークを迎えた後、景気後退局面に突入し翌年8月に終焉を迎えた。日本経済は、1956年から続いた高度成長期が一息つき、これ以降経済成長率は徐々に低下していくことになる。一方、世界を見渡すと日本同様、第二次世界大戦の荒廃からの復興景気は、1945~1970年代の西ドイツ、オーストリア、1973年までのフランス、1973年までのスペインなどヨーロッパ各国で起きており、これに米国を加えると、世界中で人類史上類を見ない好景気を迎えていたことになり、高度成長期は日本だけの特異な事象ではなかった。さらに、この流れはアジア諸国(香港、台湾、大韓民国、シンガポール、マレーシア、タイ王国、インドネシア)にまで波及し 1997年のアジア通貨危機で終焉を迎えることになる。 この頃の日本企業は高度成長終焉に伴う国内需要の成熟を受け海外に販路を拡げていくが、国内景気を盛り上げるには至らなかった。このため、政府は大型の公共投資で景気浮揚を図ることになり、同時に国債残高を雪だるま式に膨らましていく。一方、株式市場は、金融緩和によって発生する過剰流動資金で株価を上昇させる金融相場の様相を呈するようになり、経済政策の重要なツールとしての役割を担うことになる。 2.ニクソンショックと変動相場制 60年代後半の米国経済は、日本とドイツの経済力の追い上げ、ベトナム戦争による巨額の財政赤字、金・ドル本位制の限界、国内の深刻なインフレなど、戦後に渡って長く続いた繁栄は消え失せていた。ニクソン米大統領は、疲弊した米国経済を立て直すべく、1971年8月に一律10%の輸入課徴金を設定した。又、ドルの金交換停止などを柱とするドル防衛強化策も同時に発表し、戦後長く続いた1ドル=360円のIMF通貨体制は終了し、事実上、変動相場制に移行させた。これを受けて、日経は発表の翌日に210円(7.68%)もの下落をした。ドル円レートも急激な切り上がりをみせたが、12月末のスミソニアン協定(1ドル308円の固定変動相場制)で落ち着きを取り戻すことになる。 このような円高局面にも関わらず、71年の貿易黒字は78億ドルと前年のほぼ2倍に急増、72年は90億ドルにまで膨れ上がった。外貨準備高も、71年152億ドル、72年183億ドルと積み上がり、日本の製造業の国際競争力の強さを世界に

投資家視点の戦後経済(5)いざなぎ景気 (1965~1971)

イメージ
1.高度成長期の最終章  日本経済は、証券不況の後、高度成長期の最終コーナーに相当するいざなぎ景気を迎えることになる。これまでの景気は、敗戦の焼け野原から先進国の階段を上る過程での設備投資主導型の好景気であるのに対し、いざなぎ景気の特徴は、これら設備投資による技術革新が実を結び輸出主導型の経済に移行したことである。このため、かつてのように景気過熱による外貨減少を意識する必要がなくなり、日本は強固な経済を確立することができた。消費面においても、新3種の神器(マイカー、エアコン、カラーテレビ)の需要が発生しただけでなく、流通業界ではアメリカ式のチェーンストア理論の影響を受け、町中にいわゆる「スーパー」が生まれ店舗の大型化が進んだ。その大量消費を支えるために物流業も飛躍的に発展することになる。このようにして庶民の生活に物が溢れるようになり、日本は「一億、総中流」の時代に突入する。 この間の実質 GDP の成長率は、 1963 年 10.6%   1964 年 13.3%   1965 年 4.4%   1966 年 10.0%  1967 年 13.1% 1968 年 14.3% 1969 年 12.1% と証券不況により 1965 年は大きく落ち込んだものの、 1966 年に回復し、それ以降2桁の第二次高度経済成長期を迎えることになる。 2.比較的な平穏な株価 いざなぎ景気は、実質成長率が 10% を超えてはいたが、株価は比較的平穏な上昇に終始した。実際、日経平均は、前回の景気過熱( 1961 年)時につけた 1800 台の高値を越えるのに 8 年弱の歳月を費やすことになる。逆な言い方をすれば、 1961 年の高値こそ、その頃の株式市場としては実態とかけ離れていたバブル値であったことは否めない。いざなぎ景気では、証券不況も影響して、 65 年の 1100 台からスタートし、約 6 年間の歳月を か けて 2 倍強の上昇をすることに留まった。   3.先進国としての成熟化に舵を切る日本経済 いざなぎ景気は、貿易黒字による外貨の流入を防ぐ目的での景気抑制、インフレ抑制による公定歩合の引き上げ等で終焉を迎えることになるが、国際収支は以前にも増して強含みとなり、過去の景気停滞局面とは一線を画すようになっていた。 この頃から、 GDP など様々

投資家視点の戦後経済(4) オリンピック景気と証券不況 

イメージ
 1.岩戸景気の終焉 (1961 ~ 1962) 岩戸景気によって実質国民総生産は 1959 年 17.5 %、 1960 年 13.3% 、 1961 年 14.4% 増加したが 、 所得倍増計画ブームによって輸入が増加する一方で、海外は不況で輸出が伸びず国際収支は悪化した。日銀は公定歩合の 引上げによる金融引締めに政策を転換し、7月と 9 月にも公定歩合が引き上げらたことで、日経平均は同年 12 月に 1258 をつけるまでに落ち込み、岩戸景気は終焉をむかえた。その年の経済白書の中で「成長要因変化による日本経済の転換期が訪れた」と書かれた。 2.オリンピック景気 (1962 ~ 1963) 1962 年夏には米国の景気上昇の手助けもあって国際収支は回復した。さらに、東京オリンピック開催に伴う設備投資が盛んになり、東海道新幹線や首首都高速道路などのインフラ整備や国立競技場、日本武道館などの会場整備による建設特需は国家予算の 3 分の1( 1 兆円)を費やし、オリンピック景気に沸いた。さらに、3回にわたる公定歩合の引き下げも加わり、日経平均株価は、 1963 年 3 月末には 1600 台を回復した。 3. 証券不況 (1963 ~ 1965) 63 年 7 月、国際収支の赤字に苦しんでいた米国は、ケネディ米国大統領が金利平衡税(アメリカ人が外国株式を取得したとき、税率は一律 11.25% を課す)の創設を議会に提出した。 60 年~ 63 年に渡って多くの外国人投資家が日本市場に参入していたことから、株式市場は大暴落( 8,1% の下落)し、一時 1400 台を割った。大蔵省は暴落した市場を立て直そうと、 64 年 1 月に市中銀行 18 社の出資による日本共同証券」を設立し、 1964 年 3 月から 65 年 1 月まで、合計 1905 億円の株式を株式市場から買い入れた。これ は、当時の株式時価総額の 2.5 % 程度に相当する。さらに証券業界は、 1965 年 1 月に証券業界によって日本証券保有組合(民法上の任意組合) が設立した。日本証券保有組合は 1965 年 1 月から 7 月まで、証券会社から 501 億円、投資信託から 1827 億円( 当時の投資信託の時価総額の 23%) の株式を買い入れた。それらの資金

投資家視点の戦後経済(3) 神武景気と岩戸景気 

イメージ
1.数量景気と神武景気 (1954 ~ 1957) 金融引き締め策で停滞していた経済は、 1954 年中頃には、世界的な好景気に支えられ、海外向けの輸出が大幅に増え、 1955 年の国際収支は 535 百万ドルの黒字を記録した。 そして、1人当たりの実質GNPが戦前のレベルを超えたことが、白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫のいわゆる〈3種の神器〉などの 耐久消費材の普及に繋がった。 1956 年には、 第二次中東戦争によって国際商品相場や海上運賃が高騰し、 国際収支は前年の 8 割増を記録したことで 空前の設備投資ブームが起き、鉱工業生産、農業生産、国民所得がいずれも 2 桁の伸びを記録した。 こういった状況を受けて、 1956 年 度経済白書では「もはや戦後ではない」と明言するまでに至った。 しかし 、民間産業の旺盛な設備投資意欲は、原材料や高性能の生産設備の輸入を増加させ、 国際収支は 38 百万ドルにまで減少して 外貨不足に陥った。 政府は国際収支の悪化を食い止めるべく、 1957 年春に2度にわたって公定歩合を引き上げ たことで、資金の流れが悪くなり内需不振に陥った。さらに 国際商品相場と海運運賃の下落から輸出が低迷し、 6 月に神武景気は終焉を迎え、なべ底不況に突入した。 この好景気は、 1954 年 12 月から 1955 年までは、数量景気とも呼ばれたが 1957 年 6 月まで、約 31 か月に渡いた事と 、日本の歴史上、経験したことのないほどの好景気という意味も込めて、神武景気と名づけられた。この景気の特徴は、経済の過熱によるインフレを伴わなかったことから、 日経平均株価も朝鮮動乱と比べ緩やかな上昇となり、 1957 年 5 月に 595 円のピークを付けるに留まった。     2.なべ底不況 (1957 ~ 1958) なべ底不況は、設備過剰による在庫の急増によってもたらされた内需不振で、 業種別では電力・陸運業などの一部を除き全面的に業績が低下、減配・無配になった企業が目立った。一方、成長産業である電機、精密、自動車産業などへの影響は軽微であった。 1958 年の経済白書では「なべ底論」を採用し、「不況は中華鍋の底をはう形で長期化する」という見解を示した。しかし、 1958 年から 3 回にわたる公定歩合の引き下げによ

投資家視点の戦後経済(2) 1950年代  戦後初の株式ブーム

イメージ
70年前の日本は今の日本とだいぶ異なっているのが分ります。今の日本は、よく言えば成熟し大人になった。悪く言うと高齢化社会となって活気がなった。この頃の活気にあふれた日本はある意味幸せな時代だったのかもしれません。 1.戦後初の株式ブーム(1951~1953)  1951年7月には朝鮮戦争が休戦状態に入ったことで、実態経済は再び調整局面に入った。それでも、株式相場は下げ相場に転換することなく上昇基調を維持し、同年10月には170円台、翌年には多くの業界で生産過剰が表面化し操業短縮に陥ったにも関わらず、4月に200円、10月に300円と株式相場は暴騰した。その頃の状況は、下記の 「昭和29年 年次経済報告」にて垣間見ることができる。 ~抜粋~ 「動乱勃発後海外需要の増加に刺激されて繊維、機械、金属、化学、製材など関連産業部門の生産が急激に上昇し、1年後の昭和26年6月には動乱前よりも4割も上回るに至った。しかし、海外需要は26年春頃から後退に向かったため、かかる異常な増産は26年春頃から夏にかけて急増した輸入原材料の到着とも相まって、国内市況を圧迫することになった。ことに、高値買付を行った油脂、ゴム、皮革などの新三品や、輸出不振に陥った繊維品などは価格の著しい反落を招いたが、夏と年末に行われた滞貨融資や救済融資で食い止められ、国内市況全般への波及が防止された。その後も化繊、ソーダ、薄板、ゴムなどにみられる操短、綿紡の価格調節あるいは鉄鋼の建値協調などの市況安定措置がとられ、また滞貨融資も必要に応じて行われた。 しかし、消費の実勢は鈍化したとはいえなお上昇を持続しており、経済の他の部門例えば金融、財政、商品市況など既に現れつつある景気後退現象はまだほとんどみられない状況である。」         上記経済報告書の通り、1953年には、株式相場はいっそう白熱して、2月4日には474円を付け、1950年7月の最安値から、ほぼ2年半で5倍強の上昇をした。 1945 年から 50 年頃までの日本経済は、極端な供給不足による未曽有のインフレ圧力に襲われ、市場メカニズムによる需給調整が機能しなかった。このため、政府は統制的手段で需給の調整を図った。その後、政府は市場メカニズムでの需給調整に切り替えるべく、ドッジラインで諸統制を解除した。このように終戦直後の成長経済は、統制に頼った経済

投資家視点の戦後経済(1) 1950年前後 東証再開と朝鮮特需

イメージ
    1. 戦後復興と強烈なインフレ (1945 ~ 1949) 日本は敗戦による経済混乱で極端な物不足におちいり、日本中で強烈なインフレを引き起こした。このような中で日本政府は、国内基幹産業を復興させることを第一優先とし、 1946 年には 石炭や鉄鋼などの国内主要企業に対して、資材、資金、労働力を重点的に配分する傾斜生産方式を実施した。しかし、その財源は復興金融金庫の復興債の大量発行による援助金(融資)に頼らざるを得ず、これが国内市場の資金をダブつかせ、 1947 年にはインフレ率が 120% に達した。 2.ドッジライン不況 (1949) 政府は、ハイパーインフレ化した日本経済を鎮静化させるために、 1949 年 3 月にドッジラインを施行した。ドッジラインでは、戦時統制(価格統制)の緩和、米国からの補助金の廃止、復興金融債権の廃止、国家予算を超均衡予算等の超緊縮財政を行った。税制面では、ショウウブ勧告により間接税から直接税にかえ、広く公平な税徴収体制に切り替えた。このような劇薬とも言える一連の施策は強烈な需要激減を引き起こし、深刻な不況(ドッジライン不況)となった。中小企業を中心に 1100 社の倒産、および国鉄 10 万人、電電 2 万人などの大規模な人員整理が行われた。トヨタ自動車や松下電器などの新興優良企業ですら倒産寸前の状態に追い込まれた。この結果、日本国中で資金の流れが停滞し、ハイパーインフレは収束に向かった。その一方、ドッジラインでは、国際貿易の整備にも着手し、実効レートよりはるかに割安な 1 ドル= 360 円の為替レートを設定した。これは、高度成長期を通して国際競争力が強くなっていく日本企業の輸出促進に大きく寄与した。 3 . 朝鮮特需景気 (1949 ~ 1951) 終戦から5年目の 1949 年 5 月 16 日に東京証券取引所が再開した。初値こそ 176 円でスタートしたが、ドッジライン不況の影響で株価は徐々に下値を切り下げ、翌年 7 月には半値( 85 円)まで落ち込んだ。しかし、朝鮮戦争が 6 月に勃発したことで、米軍向け資材供給特需が発生した。これによって、ドッジライン不況により極度に減少した需要が補われ日本経済は再び息を吹き返した。株式市場は、この特需を支えに上昇基調に反転し、 1950 年末には 100