投資家視点の戦後経済(6)ニクソンショック、列島改造論、石油ショック(1971~1975)

 

1.高度成長期の終焉

いざなぎ景気は1969年後半にピークを迎えた後、景気後退局面に突入し翌年8月に終焉を迎えた。日本経済は、1956年から続いた高度成長期が一息つき、これ以降経済成長率は徐々に低下していくことになる。一方、世界を見渡すと日本同様、第二次世界大戦の荒廃からの復興景気は、1945~1970年代の西ドイツ、オーストリア、1973年までのフランス、1973年までのスペインなどヨーロッパ各国で起きており、これに米国を加えると、世界中で人類史上類を見ない好景気を迎えていたことになり、高度成長期は日本だけの特異な事象ではなかった。さらに、この流れはアジア諸国(香港、台湾、大韓民国、シンガポール、マレーシア、タイ王国、インドネシア)にまで波及し 1997年のアジア通貨危機で終焉を迎えることになる。

この頃の日本企業は高度成長終焉に伴う国内需要の成熟を受け海外に販路を拡げていくが、国内景気を盛り上げるには至らなかった。このため、政府は大型の公共投資で景気浮揚を図ることになり、同時に国債残高を雪だるま式に膨らましていく。一方、株式市場は、金融緩和によって発生する過剰流動資金で株価を上昇させる金融相場の様相を呈するようになり、経済政策の重要なツールとしての役割を担うことになる。


2.ニクソンショックと変動相場制

60年代後半の米国経済は、日本とドイツの経済力の追い上げ、ベトナム戦争による巨額の財政赤字、金・ドル本位制の限界、国内の深刻なインフレなど、戦後に渡って長く続いた繁栄は消え失せていた。ニクソン米大統領は、疲弊した米国経済を立て直すべく、1971年8月に一律10%の輸入課徴金を設定した。又、ドルの金交換停止などを柱とするドル防衛強化策も同時に発表し、戦後長く続いた1ドル=360円のIMF通貨体制は終了し、事実上、変動相場制に移行させた。これを受けて、日経は発表の翌日に210円(7.68%)もの下落をした。ドル円レートも急激な切り上がりをみせたが、12月末のスミソニアン協定(1ドル308円の固定変動相場制)で落ち着きを取り戻すことになる。



このような円高局面にも関わらず、71年の貿易黒字は78億ドルと前年のほぼ2倍に急増、72年は90億ドルにまで膨れ上がった。外貨準備高も、71年152億ドル、72年183億ドルと積み上がり、日本の製造業の国際競争力の強さを世界に見せつけることになり、これが結局のところ、スミソニアン協定の綻びとなり、1973年2月に完全変動相場制に移行する。また、日米間の膨大な対日貿易赤字は両国間の経済摩擦問題にまで発展し、日本は対米輸出量に自主規制を設け、米国は日本市場に対する自由化を迫った。財閥系企業などは資本自由化による外資系企業の乗っ取りから身を守るべく、グループ企業間の株式持合いを加速させ、1973年度末の法人持株比率は70%に迫る勢いとなった。


3.列島改造論と金融相場

輸出企業が牽引する膨大な貿易黒字とは対照に、国内企業は内需の盛り上がりに欠けて低迷していた。田中角栄首相は、こういった閉塞感を打開するために「列島改造論」を打ち出した。

列島改造論は、都市部と発展が遅れている地方間の格差解消を図るために、都市部から地方への工業分散、新地方都市の建設、高速道路・新幹線網を全国に張り巡らせる大規模でかつ継続的な公共投資構想である。この日本列島改造論により、地方の雇用・経済は潤うことになるが、それと同時に日本国中で不動産投機ブームが起きた。さらに、貿易黒字(外貨準備)の増加に伴って膨らんだ資金も設備投資には向かわず、土地や株式購入に流れこむようになり、地価は1972年に前年比35%強の上昇をした。株式相場も71年12月末には2700円台で推移していた株価が73年1月には5359円にまで跳ね上がった。資金の流れはそれだけに留まらず、ゴルフ会員権、貴金属、宝くじの広範囲に及ぶようになり、まるで1980年後半の不動産バブルのミニチュア版の様相を呈していた。しかし、このような流れも、同年秋の第一次石油ショックにより収束する。


4.第一次石油ショック

73年秋には、第四次中東戦争が勃発する。サウジアラビアなどのOPEC加盟国は石油の公示価格を70%引上げ、さらにイスラエルを支持する西欧諸国への石油の供給制限、そして米国とオランダへの禁輸の断行!。これを受けて、原油価格は僅か3か月間に4倍(約3ドルから約12ドル)に跳ね上がった。日本では、通産大臣の発言がきっかけでトイレットペーパーの買い占め騒ぎがおきた。原油の値上がりはガソリンなどの石油関連製品の値上げに直結し、深刻な物価上昇を引き起こした。消費者物価指数は、1972年の4.9%から1973年の15.6%、1974年の20.9%まで跳ね上がった。このようなインフレを抑制するために政府は公定歩合を9%にまで引き上げ、1973年11月には「総需要抑制策」を打ち出した。このような政策は国内消費に大きなダメージを与えることになり、経済成長率は72年9.1%、73年5.1%、74年は戦後初のマイナス0.5%にまで落ち込むことになる。


5.株価の推移

 下記のグラフを見てわかるように、いざなぎ景気は、経済成長率に比べ株式相場は比較的穏やかな上昇に推移したが、列島改造論では、短期間に株価が急激に上昇したことが分かる。1960年代前半に起きた証券相場と同様に、実体経済を無視するかのような急激な株価上昇はその後長期低迷を招いてしまう。実際、この列島改造論で記録した高値を超えるのに5年間の歳月を費やすことになる。


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