投資家視点の戦後経済(7)二度に渡る石油ショック(1976-1981)
1.国際収支の不均衡と円相場の急騰
日本経済は第一次オイルショックで1974年には戦後初のマイナス成長に陥った。その後も内需産業の回復力は弱いままで国内景気は停滞気味であったが、輸出企業の技術的競争力の向上が貿易収支を大幅黒字にさせ、経済成長率は1975年3%弱、1976年4%を記録した。一方でこの黒字超過が円高の誘導を加速し、1976年に1ドル300円だったドル円レートが1978年10月には1ドル=175円を記録することになる。米国のカーター米大統領は、急激なドル安は米国内のさらなるインフレを加速させることに危機感を抱き、同年11月にドル防衛策を打ち立て、1ドル260円までに戻すことになる。しかし、日本国内では、このような円高騰が、輸出業者の利益率を低下させることになり、貿易収支に関わらず日本国内の景気は「円高不況」に向かった。
2.日本企業の国際競争力
日本に対する過剰な貿易黒字の対抗策として、先進諸国は日本製品の輸入規制が敷く一方、農産物などについて日本市場への開放を迫った。それでも国際収支の不均衡は解消されるどころか貿易黒字は拡大される一方で、1978年の国際収支は206億ドルもの黒字を計上する。この77年時点での輸出の上位3品目は、自動車(128億ドル),一般機械(110億ドル),鉄鋼(105億ドル)で、かつての「輸出御三家」のうち船舶は82億ドルと圏外に去った。日本車は、性能,耐用性,欠陥発生頻度の低さ,修理費の低さ,信頼性,デリバリーの迅速さが購入者に評価され、一般機械は高加工度の機械類(腕時計、ビデオ・テープレコーダー、カラーテレビ)を中心に増え、日本の技術競争力を見せつけた。鉄鋼は最新設備導入による価格競争力が寄与した。米国は、鉄鋼やカラーテレビの輸出に対する自主制限を求めてきた。その一方、円高によって日本の賃金水準は欧米にかなり近づいた。このため、投入コストでは採算が合わなくなり、海外に生産拠点を移転する動きが進み始めたのもこの頃であり、日本国内の産業構造が静かに変化し始めた。
3.福田内閣の経済政策
65年5月佐藤総理は福田赳夫を大蔵大臣に任命し、均衡財政の放棄に強い抵抗感を抱く大蔵省幹部に戦後初めての赤字公債発行を認めさせ、65年の証券不況を乗り切った。1975年の三木内閣では、オイルショック後のマイナス成長で税収不足に苦しむ日本経済に対し、副総理・経済企画庁長官の立場で経済政策の指揮をとり、前回同様に赤字国債で不足分を補った。しかし、これを機に翌年から恒常的な財政赤字が続くことになる。
日本経済は、第二次産業の成熟化を迎え、更なる成長を迎えるには、第三次産業の比重を高める必要があった。この流れを受けるかのように、企業は経営の多角化に舵を切っていく事になる。一方で、他国からは日本は米独とともに世界経済回復を主導すべきであるとの要求を受けて、福田首相は 78年7月のボン・サミットで7%経済成長,貿易黒字減らしを公約し,内需拡大に努力した。そういった背景とオイルショックから引きずる内需産業の低迷をテコ入れするために、大規模な公共投資を実施し、国債依存度は 77年30%、78年36%を記録した。内需産業の収益は大幅に回復し、国内消費が堅調な動きを示したことで、1978年の実質成長率は5.5%まで回復する。また、「新経済社会7カ年計画」では、計画期間である1978~85年度の間に、総額190兆円の公共投資を実施することも閣議決定され国内重要の下支えをするが、79年には、国債依存率が39.6%にも達したことで、財政再建問題が大きく浮上した。
4.第二次オイルショック
78年末にホメイニ師がイラン革命を起こし、翌年に反欧米を標榜するイスラム主義政権が成立する。これによりイラン産原油の輸出がストップし、OPECは原油の減産と原油価格を引上げた。数年10ドル台で推移していた原油価格は80年には30ドル台に高騰し、世界経済は第二次オイルショックを迎えることになる。
しかし、日本政府は第一次石油ショック経験を教訓に、政府の省エネルギー政策、日銀の金融引き締め、円高による輸入価格抑制、産業界では労使の賃上げ抑制交渉などが効を奏して比較的軽微なダメージに抑えられた。
5.株価の推移
第一次オイルショックにより、株式市場は数年にわたる深刻な低迷を強いられたが、第二次オイルショックでは、株式市場は上昇トレンドを維持しており、その影響は限られたものとなった。
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