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〇株式投資の不確実性と野村克也の人生訓

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  株式市場の不確実性の本質を語る上で、野村克也の人生訓 「勝ちに不思議の勝あり、負けに不思議の負けなし」の名言を噛みしめながら、長期投資家と株式の不確実性を考えたい。 (ビギナーズラックは「勝ちに不思議の勝あり」の代表例)  ビギナーズラックは初心者が受ける幸運ということだが、初心者に絞ると意味が狭くなるので、一般的には「嬉しい誤算」「棚ぼた」「偶然の産物」等にも言い換えができる。つまり、期待していた以上の幸運が得られたという意味になる。人生には、こういった嬉しい誤算で人生が思わぬ方向に好転した人もいる。しかし、ビギナーズラックは、いい意味で使われるのではない。実際、このような運に対して、気持ちを引き締めて物事に打ち込めるのか、それとも自分の実力と勘違いしたり、強運の持ち主だと感じるのかでその後の人生は大きく変わってくる。 (織田信長による運のコントロール)  織田信長は戦国時代を終焉に導き、天下統一の礎を築いた名将である。そのキャリアをスタートするのが「桶狭間の戦い」の奇跡的な勝利で、まさに「勝ちに不思議の勝あり」であった。織田信長の凄いところは、これ以降の戦いにおいて「桶狭間の戦い」の二番煎じはしなかった。織田信長本人の資料は少なく、彼がどういった思想や知的水準で天下取りをしたかは学者によって意見はバラバラになる。しかし、一見破天荒な逸話や豪快な手法を用いている割には、用意周到に勝利の道筋が見えてから相手に攻め込んでいる。美濃(岐阜)の斎藤道三を負かすのに7年近い歳月を費やした。武田信玄の存命時は信玄を怒らすことはしなかった。運任せのような事は最小限に抑えていた。彼は天才であったが、自分の運に胡坐をかいて、「勝ちに不思議の勝あり」を何度も実践しようとはしなかった。 (投資における「勝ちに不思議の勝あり」)  今度は本題である投資の世界に話を移すと、相場の流れや企業のファンダメンタルに造詣のない投資初心者が購入した銘柄が、プロを凌駕する好成績を収めることがある。「勝ちに不思議の勝あり」を得た投資家は、二番煎じのように同じ投資手法で購入し更なる利益を得ようとする。しかし、大抵の場合はそれが裏目にでて相場の洗礼を受けてしまう。なぜこのようなことが起きるのか。相場の流れは常に上下右左と常に変転するからである。例として、①1980年後半の日本の不動産バブル、②2...

ロボット業界の今後

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 (安価な製造拠点の枯渇)  安価で程よい品質の製品というのは、安い賃金で長時間労働いわば植民地主義的な構造に行き着く。先進国は、高い労働賃金だけでなくワークライフバランスが浸透し長時間労働を前提とした就労も望めない。どうしてもコスト面で割高になるので、安い賃金の国での製造に依存しなくてはいけない。しかし、今の時代は植民地時代と異なり製造を請負った国が繫栄し富を蓄える。実際、中国は製造工場になることで世界第二位の経済大国になった。製造拠点はより安価なベトナムやミャンマー、インド、バングラデッシュなどに移転し始めている。しかし、そういった安価な製造拠点も近い将来には底をつく。 (人手不足社会がロボット産業を誘発)  世界中で少子高齢化が進行している。人の寿命は年を追って長くなり、人口動態における体力のある若年層の比率が低下している。そうなると製造業の担い手不足に陥ってしまう。先進国ではサービス業などは年齢不問でなんとか雇用を確保し、3K職場は人口動態とは関係なく敬遠される。今のところ、これら仕事は移民に代替してもらっているが、移民に頼りすぎると深刻な民族問題に陥ってしまう。さらに、気候変動により真夏に外で仕事をすることも身体的に厳しい時代が到来しそうだ。このため、その代替としてロボット導入が期待される。 (ロボットの登場スタイル) ロボットは人間の代替であるが必ずしも人間の形状をしなくてもよい。要は機械が人間の作業を代替する延長でよいのである、それは工場作業においては顕著であり、工場の無人化構想はこれから一つの革新的なテーマになるのは間違いない。そして、次に人とのかかわりのロボットであり、いわゆるヒューマノイドロボットである。これの行き着く先はドラえもんであろう。しかし、ドラえもんのような完成された人型ロボットの登場までには相当期間の技術的革新が必要とされる。このため①工場の作業員を代替するロボットから始まり、 ②危険な作業を代替するロボット、③コンビニ スーパーなどの従業員ロボット ④家庭用ロボットというふうに、それぞれの段階でのノウハウを高めていく事になると推測される。まさにロボット自体が用途別の提供となり、それぞれの分野でそれぞれの強みを発揮するという形態に集約するのであろう。 ロボットは当然高価なものになり、短期的に見れば人件費の方が安くも見えるが、人...

人生100年時代のFIRE(セミリタイア)論

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 この100年での人々の寿命は大きく伸びて、人生100年時代が現実味を帯びてきた。このため、FIRE(セミリタイア)をするにしても、人生100年時代を念頭にその枠組みを設計していくことが必要になっているようだ。 1.実感年齢の著しいシフト 人の寿命は、日を追うごとに伸びている。たとえば、50歳という年齢は、わずか百数十年前の明治時代ならば人生の終盤に差し掛かった老人であり、生ける時間も残り少なかった。しかし、100年以上を経過した現代で、50歳でも見た目は30代という人はざらにいる。60代は年金給付年齢のスライドにより何らかの仕事に就く人が大半となり、最近は70代でも元気に働いている人たちが増えた。ローリングストーンズなどは80歳近くになってもライブツアーで不良極まりない激しいロックを歌い続けている。一般人でも80代になると体力は落ちるが、旅行などのレジャーなどを楽しんでいる人達も増えてきた。人生100年時代と言われる中、自由に体を動かせる年齢、いわば健康年齢の閾値が上がっている。そういう観点からは50歳までは青年期と定義づけてもあながち間違いではなくなってきた。 2.給与年齢と生活年齢の乖離  健康年齢がこれだけシフトすると60歳でも20年から30年近くは様々な事を楽しめる。そうなると、人生を楽しむためにはお金とどのように向き合っていくのかは非常に重要なテーマになる。当然であるが、年をとるにつれ条件の良い仕事は名誉職など以外は殆どない。給与収入のピークと言われる50代と言っても人生100年時代の場合、人生の半分しか通過していない。しかし、60歳以降になれば、現役時と比べたら惨めなくらいに半分又はそれ以下の収入しか稼げなくなる。このような状況にも関わらず十分な貯蓄を出来ないまま60才を迎えている人は多い。そうなると、遊びたくてもお金がなく、いくつになっても不足分を補うために条件の良悪に関わらず仕事をしなくてはいけない。それではあまりにも悲しい。このため、現役時にFIREやセミリタイアなど考えることは明らかに人生における重大な機会損失である。もし、仕事が合わなく尋常ではないストレスに苛まれるなら、給与などの条件をいく分下げても自分の居心地の良い会社を見つけるまで転職を繰り返し、60歳まで持ちこたえ資産を貯めて、次のフェーズに備えるのも立派な人生設計の一案である...