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投資家視点の戦後経済(9)  「プラザ合意」とバブル景気(1986-1990) 

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  1 .プラザ合意 85年9月、ドル を 10%~12% 程度 切 り 下げ るために、 日米英独仏の大蔵大臣と中央銀行はプラザ合意を取り交わし為替市場 に 協調介入 した 。 しかし、ドル円 レート は、 85年9月 の 1ドル / 240円台 から 8 6 年 7月には1ドル / 150円台 まで高騰し、想定以上に ドル が切り下がったことから、今度は過度なドル安を防ぐ目的で、 1987年2月 に ルーブル合意 が交わされた 。 ドルの急速な切り下げは 日本企業の輸出の伸び を 鈍化 させ、一時的に 深刻な円高不況に 陥らせた 。輸出企業は 、 国内生産の採算性悪化から東アジア、東南アジア などに 生産拠点 の 移転 を加速させた 。 これによって、東アジア、東南アジアに 日本の技術 が移転し 、その後の 同地域の 経済発展の基礎を築くことになる。 政府は円高不況を和らげるために、 1985年から1987年2月 までに 公定歩合を 5% から 戦後最低 となる 2.5% まで段階的に引き下げた。しかし、この過剰ともいえる金融緩和に対し、 エレクトロニクス産業など の 優良企業は エクイティファイナンスで 資金 を 調達 していたため 、 銀行の融資先は、 大都市圏のオフィスビル開発を手掛ける不動産業、建設、ノンバンクなどに向かった。それが大都市圏の地価高騰を引き起こし、土地神話の信仰も相まって地方都市の不動産にも波及 した。さらにリゾートブームよる 乱開発 も 行われ 、 日本中 が 不動産投機ブーム に沸いた 。 2. ブラック・マンデー ( 1987年10月19日 ) 米国 経済は 、双子の赤字にも関わらず、株式市場は活況 を呈し、 NYダウは1982年8月 の 770を底に1987年10月には2600台まで 高騰した 。西欧 各国は どこも同じように 株高を演じていた。そんな 加熱ともいえる株高をけん制するように 1987年10月19日に は ニュ ー ヨーク証券取引所でブラック・マンデーと呼ばれる 23% にも及ぶ 大暴落が起き た。この大暴落は、一瞬ではあるが、 1 929 年 9月の大暴落を彷彿させるものとなった。 日経 平均 も 15%程度の急落 はしたが、その後は回復基調に戻り、 空前のバブル 相場 に突入する。欧米市場も 日本市場の独歩高に引

投資家視点の戦後経済(8) 政策金利20%の未曾有のインフレ退治とレーガノミックス((1981-1985)

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  1.米国の深刻なインフレとボルカーショック 第一次石油ショックが一段落した後も、米国経済はベトナム戦争の戦費調達による財政赤字拡大で、インフレが高止まりしていた。このため西欧各国は、金融を引締めすることでインフレを抑制しようとしたが、第二次オイルショックの襲来でインフレはさらに猛威を振るった。実際、 1976年の消費者物価(+4.9%)に対し、1978年は(+9%)、1979年は第二次オイルショックの影響で(+13.3%)まで上昇し、米国経済はそれ以降80年代初頭にかけて2ケタの激しいインフレに見舞われることになる。 1979年秋に、ポール・ボルカーがFRB議長に就任し、ボルカーショックと言われる「新金融調節方式」(通貨量をFRBが直接コントロール)を採用し、米国の金利は12%台から、翌80年2月は16.5%、翌81年には20%まで引き上がった。  この空前の高金利により失業率は 11%まで上昇し、米国は深刻な不況に陥った。しかし、同時にインフレも鎮静化し1983年には消費者物価が10%近く下がり、+3%近辺で推移するようになった。 2.レーガノミックスによる米国経済再建 米国経済は、日本やドイツの台頭により、もはやかつての華やかな栄光を失っているように見えた。レーガン大統領は 1981年に弱体化した米国経済を建て直すために「レーガノミックス」を打ち出し、   (1) 歳出の大幅な伸びの抑制 (2) 大規模な減税 (3) 政府規制の緩和 (4) 安定的な金融政策 を掲げた。いわゆる「小さな政府」を目指し、ケインズ政策ではなく「サプライサイド」政策に転換した。金融政策はボルカー議長の高金利政策でインフレを鎮静化させた。さらに高金利政策はドル高を維持する「強いドル」政策を支えたが、これは米国企業の海外移転を促し、米国国内の産業空洞化をもたらすことになる。また、日本、ドイツからの輸入量を膨らますことになり米国の貿易赤字は大きく膨らんだ。 一方、財政面では、政府支出の切り詰めで歳出は小さな伸びで推移したが、大規模な減税を実施することで歳入が大きく減少した。米国の財政赤字は、 1981年は(-)790億ドル、1983年は(-)2070億ドルにまで膨らんだが、大規模な減税は消費意欲を喚起し、米国経済は回復基調に向かうことになる。 3. 日本政府の財政再建と景気回復 一方、日

投資家視点の戦後経済(7)二度に渡る石油ショック(1976-1981) 

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  1.国際収支の不均衡と円相場の急騰 日本経済は第一次オイルショックで1974年には戦後初のマイナス成長に陥った。その後も内需産業の回復力は弱いままで国内景気は停滞気味であったが、輸出企業の技術的競争力の向上が貿易収支を大幅黒字にさせ、経済成長率は1975年3%弱、1976年4%を記録した。一方でこの黒字超過が円高の誘導を加速し、1976年に1ドル300円だったドル円レートが1978年10月には1ドル=175円を記録することになる。米国のカーター米大統領は、急激なドル安は米国内のさらなるインフレを加速させることに危機感を抱き、同年11月にドル防衛策を打ち立て、1ドル260円までに戻すことになる。しかし、日本国内では、このような円高騰が、輸出業者の利益率を低下させることになり、貿易収支に関わらず日本国内の景気は「円高不況」に向かった。 2.日本企業の国際競争力 日本に対する過剰な貿易黒字の対抗策として、先進諸国は日本製品の輸入規制が敷く一方、農産物などについて日本市場への開放を迫った。それでも国際収支の不均衡は解消されるどころか貿易黒字は拡大される一方で、1978年の国際収支は206億ドルもの黒字を計上する。この77年時点での輸出の上位3品目は、自動車(128億ドル),一般機械(110億ドル),鉄鋼(105億ドル)で、かつての「輸出御三家」のうち船舶は82億ドルと圏外に去った。日本車は、性能,耐用性,欠陥発生頻度の低さ,修理費の低さ,信頼性,デリバリーの迅速さが購入者に評価され、一般機械は高加工度の機械類(腕時計、ビデオ・テープレコーダー、カラーテレビ)を中心に増え、日本の技術競争力を見せつけた。鉄鋼は最新設備導入による価格競争力が寄与した。米国は、鉄鋼やカラーテレビの輸出に対する自主制限を求めてきた。その一方、円高によって日本の賃金水準は欧米にかなり近づいた。このため、投入コストでは採算が合わなくなり、海外に生産拠点を移転する動きが進み始めたのもこの頃であり、日本国内の産業構造が静かに変化し始めた。 3.福田内閣の経済政策 65年5月佐藤総理は福田赳夫を大蔵大臣に任命し、均衡財政の放棄に強い抵抗感を抱く大蔵省幹部に戦後初めての赤字公債発行を認めさせ、65年の証券不況を乗り切った。1975年の三木内閣では、オイルショック後のマイナス成長で税収不足に苦しむ日本経済に対

投資家視点の戦後経済(6)ニクソンショック、列島改造論、石油ショック(1971~1975)

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  1.高度成長期の終焉 いざなぎ景気は1969年後半にピークを迎えた後、景気後退局面に突入し翌年8月に終焉を迎えた。日本経済は、1956年から続いた高度成長期が一息つき、これ以降経済成長率は徐々に低下していくことになる。一方、世界を見渡すと日本同様、第二次世界大戦の荒廃からの復興景気は、1945~1970年代の西ドイツ、オーストリア、1973年までのフランス、1973年までのスペインなどヨーロッパ各国で起きており、これに米国を加えると、世界中で人類史上類を見ない好景気を迎えていたことになり、高度成長期は日本だけの特異な事象ではなかった。さらに、この流れはアジア諸国(香港、台湾、大韓民国、シンガポール、マレーシア、タイ王国、インドネシア)にまで波及し 1997年のアジア通貨危機で終焉を迎えることになる。 この頃の日本企業は高度成長終焉に伴う国内需要の成熟を受け海外に販路を拡げていくが、国内景気を盛り上げるには至らなかった。このため、政府は大型の公共投資で景気浮揚を図ることになり、同時に国債残高を雪だるま式に膨らましていく。一方、株式市場は、金融緩和によって発生する過剰流動資金で株価を上昇させる金融相場の様相を呈するようになり、経済政策の重要なツールとしての役割を担うことになる。 2.ニクソンショックと変動相場制 60年代後半の米国経済は、日本とドイツの経済力の追い上げ、ベトナム戦争による巨額の財政赤字、金・ドル本位制の限界、国内の深刻なインフレなど、戦後に渡って長く続いた繁栄は消え失せていた。ニクソン米大統領は、疲弊した米国経済を立て直すべく、1971年8月に一律10%の輸入課徴金を設定した。又、ドルの金交換停止などを柱とするドル防衛強化策も同時に発表し、戦後長く続いた1ドル=360円のIMF通貨体制は終了し、事実上、変動相場制に移行させた。これを受けて、日経は発表の翌日に210円(7.68%)もの下落をした。ドル円レートも急激な切り上がりをみせたが、12月末のスミソニアン協定(1ドル308円の固定変動相場制)で落ち着きを取り戻すことになる。 このような円高局面にも関わらず、71年の貿易黒字は78億ドルと前年のほぼ2倍に急増、72年は90億ドルにまで膨れ上がった。外貨準備高も、71年152億ドル、72年183億ドルと積み上がり、日本の製造業の国際競争力の強さを世界に

投資家視点の戦後経済(5)いざなぎ景気 (1965~1971)

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1.高度成長期の最終章  日本経済は、証券不況の後、高度成長期の最終コーナーに相当するいざなぎ景気を迎えることになる。これまでの景気は、敗戦の焼け野原から先進国の階段を上る過程での設備投資主導型の好景気であるのに対し、いざなぎ景気の特徴は、これら設備投資による技術革新が実を結び輸出主導型の経済に移行したことである。このため、かつてのように景気過熱による外貨減少を意識する必要がなくなり、日本は強固な経済を確立することができた。消費面においても、新3種の神器(マイカー、エアコン、カラーテレビ)の需要が発生しただけでなく、流通業界ではアメリカ式のチェーンストア理論の影響を受け、町中にいわゆる「スーパー」が生まれ店舗の大型化が進んだ。その大量消費を支えるために物流業も飛躍的に発展することになる。このようにして庶民の生活に物が溢れるようになり、日本は「一億、総中流」の時代に突入する。 この間の実質 GDP の成長率は、 1963 年 10.6%   1964 年 13.3%   1965 年 4.4%   1966 年 10.0%  1967 年 13.1% 1968 年 14.3% 1969 年 12.1% と証券不況により 1965 年は大きく落ち込んだものの、 1966 年に回復し、それ以降2桁の第二次高度経済成長期を迎えることになる。 2.比較的な平穏な株価 いざなぎ景気は、実質成長率が 10% を超えてはいたが、株価は比較的平穏な上昇に終始した。実際、日経平均は、前回の景気過熱( 1961 年)時につけた 1800 台の高値を越えるのに 8 年弱の歳月を費やすことになる。逆な言い方をすれば、 1961 年の高値こそ、その頃の株式市場としては実態とかけ離れていたバブル値であったことは否めない。いざなぎ景気では、証券不況も影響して、 65 年の 1100 台からスタートし、約 6 年間の歳月を か けて 2 倍強の上昇をすることに留まった。   3.先進国としての成熟化に舵を切る日本経済 いざなぎ景気は、貿易黒字による外貨の流入を防ぐ目的での景気抑制、インフレ抑制による公定歩合の引き上げ等で終焉を迎えることになるが、国際収支は以前にも増して強含みとなり、過去の景気停滞局面とは一線を画すようになっていた。 この頃から、 GDP など様々

長期金利上昇基調を占う(日銀国債引受の限界を探る展開)(その他) 

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  初版 2022.06.17  改版 2022.12.25  バブルが崩壊して30年が過ぎた。日本政府は、バブル崩壊を食い止めるべく、さまざまな要件で国債を刷りまくり、この間に日本の債務残高は驚くほどに膨れ上がった。それに呼応するように、90年代中頃から日本国破産というキーワードがオオカミ少年のように出ては消えてを繰り返してきた。 1、アベノミクスの功罪  アベノミクスのリフレ政策は、デフレに苦しむ日本にとって一定の効果を与えた。本来なら超インフレを誘導するような過激な金融緩和のはずが、深刻な少子高齢化による景気下押し圧力と相殺され、毒薬のかなりの暴走懸念を相殺していた。  そもそも、このような金融緩和は日本経済に体力があった1990年代、遅くても2000年代前半にすれば経済が暴走した政策だった。アベノミクスの政策は、制度疲労をおこしている箇所にメスを入れず、金融緩和でひたすら日本市場を再生しようとした。これ自体は間違いがないのだが、今度は日本国としての金融政策余地がどこまで残っているかに焦点が当たってしまう。 2.臨界点に近づく債務残高  日本経済にバッファがあるときは、政府の歳出によって債務が膨大に膨れ上がっても何の影響もなかった。しかし、今の日本は、超高齢化と国際競争力の低下でそのバッファは年々低下し続けている。そんな中で、政府は国内経済の安定化を保つために、様々な公共サービスを赤字国債に依存せざるえない状況にある。このような政府債務の増大を日銀が肩代わりするように日本国債買入れをしている。この状態をいつまで続けられるかが問題だ。 3.今後の債券金利の動向  国債市場の金利は、政府債務の膨張による金利上昇懸念から市場に任せられなくなり、完全に日銀のコントロール下になってしまった。今時点では、日銀の無制限買い取りにより0.25%以上に上昇しないようになっているが、逆にこれが異常な円安を誘導しているが、政策金利は黒田総裁退任をきっかけに0.5%⇒0.75%と段階的に引き上げていく事が予想される。(注)黒田総裁は、在任中の12月20日に10年物国債を0.5%まで容認した。) その一方、金利上昇は、国債の利払い膨張を意味するので、日銀は利払い膨張を防ぐようにさらなる国債購入を余儀なくされる。それだけでなく、住宅や教育などの様々なローン金利にも影響することになる。

投資家の最後の楽園 (インド) 

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  1.インドを考える  インドは、その人口が14億人近くに昇る大国という位置づけでなく、人的リソースにおいても世界有数のレベルを誇る国です。しかし、現状においては一人当たりのGDPが3000ドルに満たない発展途上国にすぎません。その理由としては、①カースト制が近代経済への移行を阻害している。②世界中を見渡しても類を見ない多民族国家で単一民族である日本のように国民全体が団結して発展することの困難なこと。などが挙げられます。そんなインドにもじわりと現代資本主義の潮流が浸透し、長きにわたる眠りから目を覚まそうとしております。  そもそも、インドの歴史を紐解くと、インドは長きに渡って世界の大国の位置にいました。むしろ現在のような停滞こそほんの僅かな期間でしかありません。この点ではかつての中国も同じような境遇でしたが、ここ30年で往年の立ち位置にまで回復しております。同系列の大国であったインドも、当然ですが同じようなリバウンドは期待されても可笑しくありません。 2、インドと中国の比較 現状では、インドは中国に大きく後れを取っていますが、これは一歩先に中国が発展した裏返しです。しかし、中国を含め世界中が少子高齢化の波に飲み込まれる中、インドは平均年齢が28歳と若く、これからその強みを発揮していくことが期待されています。ちなみに日本の平均年齢は48歳です。(これでは、日本という国の活力が失われるのも頷けます。)さらに中国と比べ一人あたりの所得が相当低いこともあり、中国がかつて歩んできた衣料や絹製品など特定の製造業の製造拠点としての役割が期待されそうです。  3.インドの未来予想 ① インドの発展形態  たとえ人件費の優位性があったとしても、インドは中国のように世界の工場としての役割を担うのではなく、特定の業種に対してのみ製造業としての強みを発揮するものと思われます。それより、インドはIT分野での発展が期待されます。それは米国のIT産業におけるインド人の活躍からも見て取れます。そんな優秀な人材の一部がインドに帰国し、自国のIT分野の発展に貢献する。これが現実的な発展形態にも思われます。さらに都市部に世界中のマネーが入り込み、未曾有の不動産開発が起こる可能性もあります。それが廻り廻って不動産価格のバブルを引き起こして、国力を高めていく。不動産投資で潤った中間層が購買意欲を高