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投資家視点の戦後経済(12)不良債権問題の深刻化とアジア通貨危機(1997-1998)

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  1.日経平均バブル崩壊後最安値更新と史上空前の経済対策 1998 年になると不良債権問題のマグマは日本経済全体に重くのしかかり、株式市場を再び直撃する。日経平均は 97 年 12 月に 1 万 5 千を割り込んだ後、翌 98 年 4 月には 1 万 7 千円まで回復したが、その後は一直線に下落し、 8 月にはバブル後最安値である 1 万 4 千円をあっさりと割り込んだ。政府は、 98 年 4 月に第 7 回総合経済対策( 16.7 兆円)を打ち出すが効果らしい効果は得られなかった。株式市場は不良債権の重圧にアジア危機が加わったことで底値感は全く見られず、 10 月には 1 万 3 千円すら割り込んだ。又、ドル=円の為替レートは、 95 年から続いている米国が打ち出した「強いドル政策」だけの要因に留まらず、不良債権問題の膨らみを不安視した円売りも加速し、今度は 140 円の為替水準まで切り下がり、違った意味で経済を冷やす要因となった。経団連は、こういった底なし沼の円安基調に対し、その対策を政府に要望した。この事態に、宮沢大蔵大臣が借金大臣と揶揄しながら 11 月に第 8 回総合経済対策( 23.9 兆円)と大手銀行への 8 兆円の公的資金投入を実施することになる。 物価面においても、以前から日本はデフレに陥っているとささやかれていたが、この 頃から日本政府もデフレによる物価下落の深刻さを表明するようになった。これを受けて日銀はデフレの悪循環を断ち切るために 、 1999 年 2 月に 「 デフレ懸念を払しょくするまでゼロ金利を継続する 」 と宣言し 、 「ゼロ金利政策」 に踏み切った。 このデフレ・スパイラルは、バブル経済崩壊による不良債権に伴う不用設備、雇用過剰、巨額債務などの問題に加え、中国などの安い輸入品の増加などが複雑に絡んでいた。 2.不良債権問題 の深刻化 バブル崩壊により発生した不良債権は、次第にその規模をスノーボール化するように膨れ上がらせ、日本経済に影を投げかけるようになる。 1996 年には、住専問題が深刻化したことで政府は国会での度重なる議論の結果、なんとか 6850 億円の公的資金を投入することで決着をつけた。政府はこれで不良債権問題は解決したと発表したが、それは氷山に一角にすぎないことは明白であった。マスコミは、次の住

投資家視点の戦後経済(11)急激な円高と米国経済の復活(1995-1997)

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  1. 急激な円高 日本国内はバブル崩壊による景気低迷に悩まされる一方、日本は依然として世界最大の貿易黒字国かつ世界一の債権(金持ち)国であり、アメリカと並ぶ世界有数の大国であった。さらに、日本の科学技術レベルの高さは、 欧米各国を凌駕しており、これら国々 にとっては脅威に映った。そういった日本の世界有数の国力と膨大な貿易黒字は、国内経済の低迷をよそに ドル=円レート を上昇させ、 94 年には1ドル 100 円を割り込む円高で日本経済を苦しめた。さらに、同年 12 月のメキシコ通貨切り下げが発端で円高がさらに加速し、翌 95 年 4 月には 1 ドル= 79.7 円をつけた。日本のGDPは、この円高による嵩上げで、米国GDPの8割強までに猛追する。ドル円レートが 70 円を切ると日米GDPの逆転すら視野に入ってきた。 2 .日米包括経済協議 そんな最中、日米は包括経済協議を行い、自動車、金融・保険調達などについて協議を 行った 。米国は日本政府に対して、自動車のより一層の輸出自主規制、日本市場への米国自動車の販売促進等、保険については海外保険会社の日本市場への開放を迫った。 しかし、日本企業は 20 年 近く続く 貿易摩擦 からの ダメージを回避する ため、 生産拠点の 海外移転を進めた結果、 移転先 である中国、韓国、台湾企業の技術力を向上 させることにな る 。これら企業は、日本製品ほどの 品質の 安定性はないが、 低価格 を武器にして欧米市場に乗り込んでいく。 その一方、米国は 95 年以降になると、 Windows95 でパソコンブームを 牽引する マイクロソフトを筆頭に IT 産業が飛躍的 に成長する。 これら IT 業界では 、 高価格かつ高品質である メインフレーム に対し、品質面では劣るが価格面での優位性を武器に、小規模システムをターゲットにした ダウンサイジングを 展開するようになる。 中国、韓国、台湾企業 はこういった流れを 上手に取り入れ ながら、 IT 産業の 市場規模の急拡大に比例するように成長していく。そのことが 米国側の日本への脅威 を 薄 めてい き 、 これ以降、 日本への執拗な自由化協議は影をひそめていく。 3 . 米国経済の復活 米国では、 1980 年代半ばから の 財政赤字拡大 で 経常収支 が 大幅 に 悪化し ていた

投資家視点の戦後経済(10) バブル景気崩壊と不良債権問題

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  1 .財政再建と消費税導入 バブル景気 は一時的だが念願の財政再建を達成する。 民間 事業者の 設備投資増大 で 税収が急速に 伸び 、 お しくも目標年度とされた 1989年に は 公債依存からの脱却 を果たした 。 それと同時に、 政府は、歳入構造の柔軟 化を図るため 広く公平に課税される間接税の導入 に踏み切った。 間接税 法案は幾度ともなく廃案に追い込まれたが 、 同年 12月に消費税導入を柱とする税制改革関連法案 を通過させることになる 。 1991年 5 月に は、 非課税範囲の拡大・簡易課税制度拡充等を 定めた 「消費税法の一部を改正する法律」 を 制定 する 。 2.バブル景気の抑制 日本政府 は過熱気味となっているバブル景気を抑えるために金融引締め政策に舵を切ったことで、資産市場は徐々に調整局面に突入し、 1985年12月 から続いた バブル 景気 は、 1991年 2 月 に幕を閉じた 。 2 -1  急激な公定歩合の引上げ 日本銀行は、 公定歩合 を現行の 2.5% から、 1989年5月+0.75%、10月+0.5%、12月+0.5%と 引き上げ、年末には 4.25% とした 。その翌年 には 、 3 月 +1.0%、 8 月 +0.75%と引き上げ 、公定歩合を 6 .0% とした。僅か1年3か月の間に公定歩合を 3 .5% と急激に引き上げた。貯蓄性商品も7 %から8 % の利回りのものが出回るようになった。一方、事業者や投資家は急激な金利引き上げで銀行からの借り入れが難しくなり、資産市場に資金が流れなくなった。 2 -2 不動産融資の 総量規制 1990年 3 月 、 大蔵省 (現 : 財務省 ) は 不動産融資 の 総量規制を金融機関に通達した。地価 上昇 は、東京圏で はこれより前の 1988年、大阪圏で は 1990年に鎮静 化 し ていたが、これら規制も相まって 1991年からは 日本全国で 下落 基調に 転じた。公定歩合の引き上げと不動産 融資の 総量規制により、買い手側が資金を調達できなくなっただけでなく、売り手側も買い手不在のために売却がスムーズに進まなくなり、不動産 価格の 下落テンポを速め た。 1993年には公示地価の8.4%まで下落した。アラン・グリーンスパンFRB議長は、その当時の日本の状況を見ながら「資産価

投資家視点の戦後経済(9)  「プラザ合意」とバブル景気(1986-1990) 

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  1 .プラザ合意 85年9月、ドル を 10%~12% 程度 切 り 下げ るために、 日米英独仏の大蔵大臣と中央銀行はプラザ合意を取り交わし為替市場 に 協調介入 した 。 しかし、ドル円 レート は、 85年9月 の 1ドル / 240円台 から 8 6 年 7月には1ドル / 150円台 まで高騰し、想定以上に ドル が切り下がったことから、今度は過度なドル安を防ぐ目的で、 1987年2月 に ルーブル合意 が交わされた 。 ドルの急速な切り下げは 日本企業の輸出の伸び を 鈍化 させ、一時的に 深刻な円高不況に 陥らせた 。輸出企業は 、 国内生産の採算性悪化から東アジア、東南アジア などに 生産拠点 の 移転 を加速させた 。 これによって、東アジア、東南アジアに 日本の技術 が移転し 、その後の 同地域の 経済発展の基礎を築くことになる。 政府は円高不況を和らげるために、 1985年から1987年2月 までに 公定歩合を 5% から 戦後最低 となる 2.5% まで段階的に引き下げた。しかし、この過剰ともいえる金融緩和に対し、 エレクトロニクス産業など の 優良企業は エクイティファイナンスで 資金 を 調達 していたため 、 銀行の融資先は、 大都市圏のオフィスビル開発を手掛ける不動産業、建設、ノンバンクなどに向かった。それが大都市圏の地価高騰を引き起こし、土地神話の信仰も相まって地方都市の不動産にも波及 した。さらにリゾートブームよる 乱開発 も 行われ 、 日本中 が 不動産投機ブーム に沸いた 。 2. ブラック・マンデー ( 1987年10月19日 ) 米国 経済は 、双子の赤字にも関わらず、株式市場は活況 を呈し、 NYダウは1982年8月 の 770を底に1987年10月には2600台まで 高騰した 。西欧 各国は どこも同じように 株高を演じていた。そんな 加熱ともいえる株高をけん制するように 1987年10月19日に は ニュ ー ヨーク証券取引所でブラック・マンデーと呼ばれる 23% にも及ぶ 大暴落が起き た。この大暴落は、一瞬ではあるが、 1 929 年 9月の大暴落を彷彿させるものとなった。 日経 平均 も 15%程度の急落 はしたが、その後は回復基調に戻り、 空前のバブル 相場 に突入する。欧米市場も 日本市場の独歩高に引

投資家視点の戦後経済(8) 政策金利20%の未曾有のインフレ退治とレーガノミックス((1981-1985)

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  1.米国の深刻なインフレとボルカーショック 第一次石油ショックが一段落した後も、米国経済はベトナム戦争の戦費調達による財政赤字拡大で、インフレが高止まりしていた。このため西欧各国は、金融を引締めすることでインフレを抑制しようとしたが、第二次オイルショックの襲来でインフレはさらに猛威を振るった。実際、 1976年の消費者物価(+4.9%)に対し、1978年は(+9%)、1979年は第二次オイルショックの影響で(+13.3%)まで上昇し、米国経済はそれ以降80年代初頭にかけて2ケタの激しいインフレに見舞われることになる。 1979年秋に、ポール・ボルカーがFRB議長に就任し、ボルカーショックと言われる「新金融調節方式」(通貨量をFRBが直接コントロール)を採用し、米国の金利は12%台から、翌80年2月は16.5%、翌81年には20%まで引き上がった。  この空前の高金利により失業率は 11%まで上昇し、米国は深刻な不況に陥った。しかし、同時にインフレも鎮静化し1983年には消費者物価が10%近く下がり、+3%近辺で推移するようになった。 2.レーガノミックスによる米国経済再建 米国経済は、日本やドイツの台頭により、もはやかつての華やかな栄光を失っているように見えた。レーガン大統領は 1981年に弱体化した米国経済を建て直すために「レーガノミックス」を打ち出し、   (1) 歳出の大幅な伸びの抑制 (2) 大規模な減税 (3) 政府規制の緩和 (4) 安定的な金融政策 を掲げた。いわゆる「小さな政府」を目指し、ケインズ政策ではなく「サプライサイド」政策に転換した。金融政策はボルカー議長の高金利政策でインフレを鎮静化させた。さらに高金利政策はドル高を維持する「強いドル」政策を支えたが、これは米国企業の海外移転を促し、米国国内の産業空洞化をもたらすことになる。また、日本、ドイツからの輸入量を膨らますことになり米国の貿易赤字は大きく膨らんだ。 一方、財政面では、政府支出の切り詰めで歳出は小さな伸びで推移したが、大規模な減税を実施することで歳入が大きく減少した。米国の財政赤字は、 1981年は(-)790億ドル、1983年は(-)2070億ドルにまで膨らんだが、大規模な減税は消費意欲を喚起し、米国経済は回復基調に向かうことになる。 3. 日本政府の財政再建と景気回復 一方、日

投資家視点の戦後経済(7)二度に渡る石油ショック(1976-1981) 

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  1.国際収支の不均衡と円相場の急騰 日本経済は第一次オイルショックで1974年には戦後初のマイナス成長に陥った。その後も内需産業の回復力は弱いままで国内景気は停滞気味であったが、輸出企業の技術的競争力の向上が貿易収支を大幅黒字にさせ、経済成長率は1975年3%弱、1976年4%を記録した。一方でこの黒字超過が円高の誘導を加速し、1976年に1ドル300円だったドル円レートが1978年10月には1ドル=175円を記録することになる。米国のカーター米大統領は、急激なドル安は米国内のさらなるインフレを加速させることに危機感を抱き、同年11月にドル防衛策を打ち立て、1ドル260円までに戻すことになる。しかし、日本国内では、このような円高騰が、輸出業者の利益率を低下させることになり、貿易収支に関わらず日本国内の景気は「円高不況」に向かった。 2.日本企業の国際競争力 日本に対する過剰な貿易黒字の対抗策として、先進諸国は日本製品の輸入規制が敷く一方、農産物などについて日本市場への開放を迫った。それでも国際収支の不均衡は解消されるどころか貿易黒字は拡大される一方で、1978年の国際収支は206億ドルもの黒字を計上する。この77年時点での輸出の上位3品目は、自動車(128億ドル),一般機械(110億ドル),鉄鋼(105億ドル)で、かつての「輸出御三家」のうち船舶は82億ドルと圏外に去った。日本車は、性能,耐用性,欠陥発生頻度の低さ,修理費の低さ,信頼性,デリバリーの迅速さが購入者に評価され、一般機械は高加工度の機械類(腕時計、ビデオ・テープレコーダー、カラーテレビ)を中心に増え、日本の技術競争力を見せつけた。鉄鋼は最新設備導入による価格競争力が寄与した。米国は、鉄鋼やカラーテレビの輸出に対する自主制限を求めてきた。その一方、円高によって日本の賃金水準は欧米にかなり近づいた。このため、投入コストでは採算が合わなくなり、海外に生産拠点を移転する動きが進み始めたのもこの頃であり、日本国内の産業構造が静かに変化し始めた。 3.福田内閣の経済政策 65年5月佐藤総理は福田赳夫を大蔵大臣に任命し、均衡財政の放棄に強い抵抗感を抱く大蔵省幹部に戦後初めての赤字公債発行を認めさせ、65年の証券不況を乗り切った。1975年の三木内閣では、オイルショック後のマイナス成長で税収不足に苦しむ日本経済に対

投資家視点の戦後経済(6)ニクソンショック、列島改造論、石油ショック(1971~1975)

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  1.高度成長期の終焉 いざなぎ景気は1969年後半にピークを迎えた後、景気後退局面に突入し翌年8月に終焉を迎えた。日本経済は、1956年から続いた高度成長期が一息つき、これ以降経済成長率は徐々に低下していくことになる。一方、世界を見渡すと日本同様、第二次世界大戦の荒廃からの復興景気は、1945~1970年代の西ドイツ、オーストリア、1973年までのフランス、1973年までのスペインなどヨーロッパ各国で起きており、これに米国を加えると、世界中で人類史上類を見ない好景気を迎えていたことになり、高度成長期は日本だけの特異な事象ではなかった。さらに、この流れはアジア諸国(香港、台湾、大韓民国、シンガポール、マレーシア、タイ王国、インドネシア)にまで波及し 1997年のアジア通貨危機で終焉を迎えることになる。 この頃の日本企業は高度成長終焉に伴う国内需要の成熟を受け海外に販路を拡げていくが、国内景気を盛り上げるには至らなかった。このため、政府は大型の公共投資で景気浮揚を図ることになり、同時に国債残高を雪だるま式に膨らましていく。一方、株式市場は、金融緩和によって発生する過剰流動資金で株価を上昇させる金融相場の様相を呈するようになり、経済政策の重要なツールとしての役割を担うことになる。 2.ニクソンショックと変動相場制 60年代後半の米国経済は、日本とドイツの経済力の追い上げ、ベトナム戦争による巨額の財政赤字、金・ドル本位制の限界、国内の深刻なインフレなど、戦後に渡って長く続いた繁栄は消え失せていた。ニクソン米大統領は、疲弊した米国経済を立て直すべく、1971年8月に一律10%の輸入課徴金を設定した。又、ドルの金交換停止などを柱とするドル防衛強化策も同時に発表し、戦後長く続いた1ドル=360円のIMF通貨体制は終了し、事実上、変動相場制に移行させた。これを受けて、日経は発表の翌日に210円(7.68%)もの下落をした。ドル円レートも急激な切り上がりをみせたが、12月末のスミソニアン協定(1ドル308円の固定変動相場制)で落ち着きを取り戻すことになる。 このような円高局面にも関わらず、71年の貿易黒字は78億ドルと前年のほぼ2倍に急増、72年は90億ドルにまで膨れ上がった。外貨準備高も、71年152億ドル、72年183億ドルと積み上がり、日本の製造業の国際競争力の強さを世界に