投資家視点の戦後経済(11)急激な円高と米国経済の復活(1995-1997)
1.急激な円高
日本国内はバブル崩壊による景気低迷に悩まされる一方、日本は依然として世界最大の貿易黒字国かつ世界一の債権(金持ち)国であり、アメリカと並ぶ世界有数の大国であった。さらに、日本の科学技術レベルの高さは、欧米各国を凌駕しており、これら国々にとっては脅威に映った。そういった日本の世界有数の国力と膨大な貿易黒字は、国内経済の低迷をよそにドル=円レートを上昇させ、94年には1ドル100円を割り込む円高で日本経済を苦しめた。さらに、同年12月のメキシコ通貨切り下げが発端で円高がさらに加速し、翌95年4月には1ドル=79.7円をつけた。日本のGDPは、この円高による嵩上げで、米国GDPの8割強までに猛追する。ドル円レートが70円を切ると日米GDPの逆転すら視野に入ってきた。
2.日米包括経済協議
そんな最中、日米は包括経済協議を行い、自動車、金融・保険調達などについて協議を行った。米国は日本政府に対して、自動車のより一層の輸出自主規制、日本市場への米国自動車の販売促進等、保険については海外保険会社の日本市場への開放を迫った。
しかし、日本企業は20年近く続く貿易摩擦からのダメージを回避するため、生産拠点の海外移転を進めた結果、移転先である中国、韓国、台湾企業の技術力を向上させることになる。これら企業は、日本製品ほどの品質の安定性はないが、低価格を武器にして欧米市場に乗り込んでいく。
その一方、米国は95年以降になると、Windows95でパソコンブームを牽引するマイクロソフトを筆頭にIT産業が飛躍的に成長する。これらIT業界では、高価格かつ高品質であるメインフレームに対し、品質面では劣るが価格面での優位性を武器に、小規模システムをターゲットにしたダウンサイジングを展開するようになる。中国、韓国、台湾企業はこういった流れを上手に取り入れながら、IT産業の市場規模の急拡大に比例するように成長していく。そのことが米国側の日本への脅威を薄めていき、これ以降、日本への執拗な自由化協議は影をひそめていく。
3.米国経済の復活
米国では、1980年代半ばからの財政赤字拡大で経常収支が大幅に悪化していた。同時に米国民の貯蓄率が低下したこと。米国の内需拡大による輸入増加もあいまって、米国は債権国から債務国に転落する。米国の経常赤字は、逆説的には世界経済に大きく貢献しているが、米国の国力を示すドルの信認を大きく損ねていた。巨額な財政赤字の膨張は、国家破産を危惧されるまでになり、ドルはまもなく紙屑になると囁かれるようになる。しかし、93年以降のIT分野の飛躍的な成長に支えられ、財政赤字幅が縮小がしていく。その一方、外国からの輸入はむしろ拡大傾向となり、財政改善とは逆行するように「双子の赤字」は拡大した。
為替相場は、ルービン財務官が強いドルを提唱することで、ドル=円レートは、95年8月を境に円安基調に転調し、10月には1ドル100円台まで回復した。米国ダウは、95年のWindowsブームが表面化する頃からIT銘柄を中心に急激な上昇をしたことで、1995年1月3800台に対し、1996年1月5400台まで上昇した。グリーンスパンFRB議長は、そんな大幅な株高を「根拠なき熱狂」と表現し、陶酔する株式相場と投資家に懸念を示した。
4.バブル最安値更新と「さざ波景気」
1995年1月阪神・淡路大震災が起きて、神戸を中心とした社会インフラに甚大な被害をもたらした。日経平均は19,724円で年初をスタートしたが、3月中頃には15,424円を記録するまでに落ち込んだ。こういった背景を踏まえ、日銀は4月に公定歩合を-0.75%を引き下げ、史上最低の1.00%にするとともに、第5回緊急円高・経済対策(7.0兆円)の経済対策を実行した。しかし、株式市場への効果はほとんどなく、日経平均は6月にバブル最安値となる14,295円を記録する。政府は9月に史上最大となる14兆円に昇る第6回経済対策を講じると同時に、日銀は公定歩合0.5%を引き下げて史上最低の0.50%とした。日経平均は、景気対策の実施を織り込むように上昇し、8月末には1万8千円台まで回復し、96年春には2万2千円まで上昇した。それ以降、日経平均は安定的に推移し、97年まで概ね2万円台で推移した。
経済統計による景気判断では、1995年にバブル最安値更新と史上最大の景気対策を施したにも関わらず、1993年10月から1997年5月まで長期間に渡っての景気拡大基調が続いたという結果が報告され、この期間を「さざ波景気」と名付けられた。戦後、これだけ実経済と経済指標が乖離した好景気も珍しかった。
5.消費税増税と財政再建
橋本内閣は、「さざ波景気」に相乗りするようにして、大蔵省(現 財務省)主導による財政再建を優先させ、1996年12月に「財政健全化目標について」を閣議決定し、1997年4月に消費税増税を施行した。
しかし、消費税増税はただでさえ脆弱な日本経済を奈落に底に落とし込むことになる。そして、消費税増税施行後の翌月には「さざ波景気」が終わりを告げるだけでなく、この景気後退は、今まで水面下で踏みとどまっていた金融・建設業の不良債権問題を表面化させていった。そして、大手都市銀行の一角を瀕死状態に陥らせていく。そういった状況下でさえ、政府は11月に財政構造改革法を成立させ、財政再建を急いだ。しかし、株式市場は、これら動きに反するように下落基調となり、12月には1万5千円を割り込み、バブル最安値に向かって地固めをしていく。
6.金融ビックバン
日本政府は、東京市場をニューヨーク市場、ロンドン市場と肩を並べる市場に育てることを目的に金融ビックバン構想を打ち立てた。金融ビックバンでは、金融・証券市場の自由化(フリー)、金融取引の透明化(フェア)、金融の国際化(グローバル)を掲げた。そして、ビックバンが導く規制緩和を利用し、バブル崩壊後に膨れ上がった不良債権の円滑な処理も期待された。しかし、戦後一貫して、大蔵省(現:財務省)の規制下にあった金融機関が、それらの束縛から解放され自由な競争に終始するには、あまりにも迅速な改革であったため、金融機関は自由な競争に迷走しながら、世界の金融市場に飛び込んでいくことになる。
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