投資家視点の戦後経済(10) バブル景気崩壊と不良債権問題

 


.財政再建と消費税導入

バブル景気は一時的だが念願の財政再建を達成する。民間事業者の設備投資増大税収が急速に伸びしくも目標年度とされた1989年に公債依存からの脱却を果たしたそれと同時に、政府は、歳入構造の柔軟化を図るため広く公平に課税される間接税の導入に踏み切った。間接税法案は幾度ともなく廃案に追い込まれたが同年12月に消費税導入を柱とする税制改革関連法案を通過させることになる1991年月には、非課税範囲の拡大・簡易課税制度拡充等を定めた「消費税法の一部を改正する法律」制定する


2.バブル景気の抑制

日本政府は過熱気味となっているバブル景気を抑えるために金融引締め政策に舵を切ったことで、資産市場は徐々に調整局面に突入し、1985年12月から続いたバブル景気は、1991年に幕を閉じた

-1 急激な公定歩合の引上げ

日本銀行は、公定歩合を現行の2.5%から、1989年5月+0.75%、10月+0.5%、12月+0.5%と引き上げ、年末には4.25%とした。その翌年には+1.0%、+0.75%と引き上げ、公定歩合を6.0%とした。僅か1年3か月の間に公定歩合を3.5%と急激に引き上げた。貯蓄性商品も7%から8%の利回りのものが出回るようになった。一方、事業者や投資家は急激な金利引き上げで銀行からの借り入れが難しくなり、資産市場に資金が流れなくなった。

-2 不動産融資の総量規制

1990年大蔵省(現:財務省)不動産融資総量規制を金融機関に通達した。地価上昇は、東京圏ではこれより前の1988年、大阪圏で1990年に鎮静ていたが、これら規制も相まって1991年からは日本全国で下落基調に転じた。公定歩合の引き上げと不動産融資の総量規制により、買い手側が資金を調達できなくなっただけでなく、売り手側も買い手不在のために売却がスムーズに進まなくなり、不動産価格の下落テンポを速めた。1993年には公示地価の8.4%まで下落した。アラン・グリーンスパンFRB議長は、その当時の日本の状況を見ながら「資産価格の変動は、金融システムに大きな影響をもたらす。対策は早いほうがいい」と述べた。実際、このような急速な不動産価格の下落、その後の不良債権問題として日本経済を長期に渡って悩ますことになる



-3 株価市場の崩壊

1989年の大納会は、日経平均38,915円を記録して終了したが、翌年年初から株式、債券、円が揃って値を下げて始まったその後も下げ基調が続き、4月には千円まで落ち込んだ。その後は反発して、3千円まで戻したが、8にはイラククウェート侵攻(湾岸戦争)が勃発し、株式市場に悪影響を及ぼすことになる。日本はこの戦争で130億ドルに及ぶ膨大な支援を行なったにも関わらず、日米摩擦での両国間の緊張もあり、米国側の扱いは他国と比べ粗末なものとなった。

株式市場が暴落する一方で、街角景気は依然としてバブル経済の余韻に包まれていた。そんな現状を一部のエコノミストは株価が暴落しても日本経済に影響を与える事はないと断言した。実際、日本経済は一点の曇りすらないほど隆盛を極めていた。日本を凌ぐ技術立国はどこを見ても見当たらず、膨大な貿易黒字を抱える日本経済はどうみても堅牢な城にしか見えなかった。日本のメーカー「メードインジャパン=世界一の技術力」を追求していく一方で、足元では日本企業製造拠点である台湾や韓国、中国の地場メーカー技術力が著しく向上していく。そして、これらメーカーが販売する中品質の低価格商品は、少しづつ日本メーカーの牙城を切り崩していく

日経平均は、湾岸戦争の影響で再び暴落する。10月にはバブル高値の半額に近い2万円を伺うことになった。その後は平静を取り戻し、1991年3月には2万7千円を回復したが、弱含みながら行きつ戻りつで推移し、8月には21千円台をつけ、11月には5千円台を回復する。しかし、この頃になるとソニーが赤字決算を出すなどの企業業績の悪化が深刻化したこと、証券不祥事(株価下落による証券会社からの損失補填)の発覚が社会問題化したことで、証券会社が株価下落を傍観せざる得ない状況下になった。こういった複数の要因が重なり、株価はこれ以降下落トレンドを突き進んでいく。


株価維持政策(PKO)の実施

1991年中頃から不動産や株価下落は、逆資産効果として実態経済に影響を与えはじめるようになった。これを察知した日本政府は金融緩和策に転じ日銀は公定歩合を、7月-0.5%、同年11月-0.5%、同年12月-0.5%引き下げ、年末には公定歩合を4.5%とした。それと同時に不動産融資の総量規制も解除した。翌92年には、4月-0.75%、7月-0.5%と引き下げ93年2月に-0.75%を引き下げたことで、公定歩合はバブル時と同じ2.5%となった。それでも株価は動意づくことがなかった。日銀はさらに、93年月に-0.75%引き下げ.史上最低の1.75%とした。しかし、株式市場は公定歩合引き下げによる金融緩和策では動意ずくことはなく、株価下落を食い止められない状況にまで悪化していた。

不動産価格の暴落は、不良債権問題を引き起こすことになる。1992年4月には大蔵省が都市銀行などの延滞債権が7~8兆円に上った事を公表した。しかし、市場は不良債権額が公表以上にあると睨んでいた。日経平均は、1992年月に万円大台を割ってからは急激に下げ足を速めて、底なし沼の様相を呈し、8には14千円に突入したこの時点で、東証一部の時価総額1989年末の611兆円から270兆円まで激減していたが、投資家は押し目買いすらできないほどに株式市場は悪化していた。

これを見かねた政府は株価維持政策(PKO)を打ち出して、郵貯や年金資金を使って株式を買い支えていくだけでなく、冷え込んだ需要を回復させるために大規模な公共投資を幾度も打ち出した。第1992年月(10.7兆円)、第1993年月(13.2兆円)、第1993年月(6.0兆円)、第1994年月(15.2兆円)など、財政規律を無視した市場空前の対策を施行したことで株価の下落を食い止めることができたが、それでも小春日和のような景気回復に留まり、景気を過熱するまでには至らなかった。その間も、不良債権は日を追うごとに膨れ上がり特にバブル時代に過剰融資をしたノンバンクの経営を瀕死状態に追い込んていく



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