人生における労働を考える
人生は長いようで短い。人は人生の多くのお金を稼ぐための労働に費やさなくてはいけない。人生において労働は切って切れない関係である。
タイなどの東南アジアでは、富裕層は保有資産から生まれる配当で生活できる人を指し、労働は無産階級が行うものという考えがある。
日本の場合、富裕層は配当というより労働所得が突出して高い層を指している。一部の成功者が最終的には配当で生活できるようになったとしても、その後は過酷な相続税で大部分の財産を剝奪され、世代を跨っての資産の継承は非常に困難である。
マスコミやネットの情報とは裏腹に、外国人から見たら理想的なまでの社会性民主主義国家に見えるが、平等であるがゆえに優秀な人とそうでない人の実生活の差が限りなく小さくさせられている。悪名高き朝の過酷な満員電車などは、西欧人から見たらまさに発展途上国のような前近代的な光景であるが、その中には超といえるほどのエリートがたくさん乗車している。
賃金面においても、社長と社員の給与差は海外と比べる驚く程小さい。
さらに高収入を得ても累進課税制度により手取りベースでの差を最小限に日本政府によって抑えられている。 それだけではない。年収が高くなるにつれて社会保障の特典が削り取られまさに踏んだり蹴ったりである。
まさに、中途半端に優秀な人が割を食う社会がそこにある。しかし、そんな真実に誰も触れようとしないだけではなく、マスコミやネットでは年収だけを軸にして、面白おかしく格差社会記事を量産している。
そうなると、日本には努力しても桃源郷が存在しないように思われるが、日本には「おもてなし」文化に代表されるような海外なら高いお金をかけなければ受けとれないホスピタリティを至る所で受けることが出来る。ちょっとした定食屋や居酒屋で高級料理と遜色ない味を堪能することができる。日本では海外と異なり商品の質と値段に相関性がないことも少なくない。
日本で富裕層になれば、これらサービスにお金をかけずに最大限に享受することができる。まさに桃源郷そのものである。
唯一つ言える事は、特定の分野に突出したスキルを保有し、それを人生において上手に活用できた人という事だけは言えるであろう。
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