現代人に必要なのは「探求心」を獲得すること
生命とは、本来、いかなる環境にあっても種を存続させるため、自己を複製する物理現象である。より正確に言えば生命とは、遺伝子を次世代へ伝えるための「遺伝子の容れ物」であり、その使命を果たした時点で死を迎え、次世代へとバトンを渡す存在である。多くの生物は繁殖を終えると、ほどなく生涯を閉じる方向へ向かう。
しかし人間は、この原則から逸脱した。出産と子育てを終えた後も生き続け、百歳を超えることすら珍しくない。平均寿命は延び、老年期はもはや例外ではなく常態となった。生命の本来の目的から外れたこの状態は、進化なのか、それとも一時的な逸脱なのか、あるいはシステムエラーなのだろうか。数十億年に及ぶ生命史の中で、いま人類は極めて特異な局面に立たされている。
闘争心が肥大化した現代社会
現代において、自己を複製する欲求は確かに減退している。一方で、もう一つの本能──より優位に立とうとする闘争心──は、形を変えながら、むしろ強固に人々の生活を規定している。
かつての闘争は「力」だった。より強い者が社会を制した。しかし現代の闘争は、「知」と「承認」へと姿を変えた。どれほど形が変わろうとも、人間社会の原型は、猿山におけるボスの序列から本質的に脱却していない。人は争う生き物である。
法の平等と自由を謳うも現実は不自由の洪水
一方で、人は宗教で平等と平穏を解き、現代社会では人権という理念のもとで平等を法令化し、政府は再分配機能を通じて格差の是正を図っている。科学技術の発展で労働は効率化され、物資は溢れ、かつてよりはるかに自由な社会が実現したようにも見える。
しかし――人間は本当に自由になったのだろうか。
答えは否である。
便利になった分だけ、人は自ら目標を上書きし、再び自分自身を追い込む。追い込まなければ企業は競争に飲み込まれ、市場からの退場を迫られる。平等な権利という名のもと、社会全体が過酷な競争へ再投入されている現実。
かつては階級制度が闘争心の範囲を狭めていた。競争相手は同じ階級の人達に限られていたからだ。しかし現代社会は全員が法の元での「平等」であるがゆえに、あらゆる場所で不要な闘争に溢れている。
SNSには、マウントと虚飾に満ちた生活の断片が溢れ、映画やドラマ、広告は時代ごとの理想像を刷り込み続ける。それを達成するため、人は走り続けさせられる。こうして本来なら不要であったはずの闘争に、人びとは精神をすり減らされるのである。
資本主義社会において、マネーは神である
資本主義社会において、神とは資産を持つことだ。そして皮肉なことに、資産を得ることこそが、この競争社会から距離を取る唯一の現実的手段となっており、その傾向は年を追って高まっている。
かつて社会的地位や肩書きは安定と自由をもたらすものだった。しかし今やそれらは、期限付きの優位性に過ぎない。一方で、資産は目立たぬかたちで、しかし恒常的に自由を支える。
資産があれば、別の次元で人生を思索できる。ここにもう一本、異なる次元へ伸びる矢が芽生える。それが探求心である。
探求心という宝石
多くの人は、年齢とともに楽しみを失う。老後、日常が暇に覆われ、そこに経済的不自由が重なれば、生活は容易に地獄絵図と化す。結局、仕事だけが自分を満たす最後の拠り所となる人も多い。
だが「お金のための労働」と「自己満足のための労働」では、見える世界がまるで異なる。趣味も同じである。
よく「年を取ったら旅行をしたい」と語られるが、それが空虚に終わることは少なくない。加齢とともに感動は摩耗し、かつて胸を打った景色も心を動かさなくなる。それは、闘争心によって過度に消耗した心の副作用とも言える。
真の理想郷とは、他者からの承認や優劣ではなく、自分自身が心から楽しめる桃源郷である。日常の些細なことに興味を持ち、探究する姿勢。例えば料理一つとっても、「どうすればより美味しくなるのか」と考える行為そのものが人生を豊かにする。
こうした思考の転換ができれば、人生は確実に楽しくなる。
だからこそ、二十代から四十代は過酷な競争社会で戦い抜き、同時に資産形成に集中する。そして五十代で十分な資本を築いたなら、闘争心から探求心へと人生ね軸足を移していく。
仏教は説く。
「苦は、求め続ける心から生じる」
「苦は、欲望そのものから生じる」
重要なのは「物事に縛られないこと」だ。この世における自我の価値など、実のところ取るに足らない。マウントに囚われ、闘争心に振り回される人生よりも、探求心と感謝を軸に生きるほうが、はるかに賢明である。
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