江戸時代から今後の日本をスクリーニング

今後の日本経済を占う上で、江戸時代の経済を調べてみた。

(江戸幕府の経済状況)

 江戸時代初期は、新田開発などが盛んに行われ高度成長期を迎えていた。しかし家光は家康が蓄財した多額の財産を日光東照宮などに投じた結果、幕府の財政はひっ迫するようになった。五代将軍綱吉は貨幣改鋳により貨幣を多量に供給したことから元禄バブルを引き起こしたが、インフレなどの副作用が生じた、こうしたことから幕府は幾度にわたる財政改革を行うも好転せず財政赤字は膨らんでいった。結局のところ、ペリー来航の黒船により鎖国を解かれることで欧米列強の国力を目のあたりにし、新しい日本を建てるべく明治維新という革命で江戸時代は幕をひくことになる。

(主な経済推移)

①元禄バブル

 江戸初期の高度成長期は、新田開発が限界を迎えたこと。金銀鉱山の産出量が減少したことで幕府の収入は頭打ちになるが、綱吉は貨幣改鋳を行うことで貨幣を大量に供給し「元禄バブル」を引き起こした。

 これ以降、幕府の財政悪化は深刻な事となり、幕府は②~⑦の緊縮と緩和財政を繰り返すことになる。

②正徳の治(緊縮財政) 新井白石 (1711~1717)は、綱吉時代の放漫財政を立て直すべく、生類憐みの令の廃止、貨幣改鋳を改め、貿易量制限による銀の過剰な流出の阻止などをする。

③享保の改革 徳川吉宗 (1716~1745)が、幕閣に倹約を強いて、新田開拓、商品作物を推奨することで、税収を増加させることで幕府の財政を立て直そうとする。

④田沼時代 幕府財政の立直しを、米中心の経済から重商主義の貨幣経済への転換を図るが、商人の風紀を乱すなどで不評を買って失敗する。 

⑤寛政の改革 松平定信 (1787~1793)は。田沼時代を金権政治と見なし、緩みきった風紀を引き締め、質素倹約を強いることで幕府の財政を立て直そうとした。

⑥徳川家斉になると幕府の支出の拡大することで江戸は好景気になり、化政文化が花咲く。

⑦天保の改革(緊縮財政) 水野忠邦 (1830~1843)は、倹約令を施行し、風俗取締り。農民の農村への人返し。さらに江戸や大阪周辺を上知令で幕府直轄地使用したが失敗

(人口推移)

 人口推移をみる限り、高度成長期の終焉の綱吉時代を契機に人口が横ばいになる。日本もバブル崩壊し、その後形は違えど少子高齢化が起きて、人口減少社会をひた走っている。江戸時代の人口が再度増え始めたのは明治維新から。では現在の日本はいつ?

 1600年頃(江戸時代初期 経済発展期)1200万人

 1650年頃(3代将軍家光 幕府財取崩)1750万人

 1700年頃(5代将軍綱吉 元禄バブル)2800万人

 1750年頃(8代将軍吉宗 享保の改革)3100万人 

  1800年頃(11代将軍家斉 寛政の改革)3074万人 

 1844年頃(12代将軍家慶 天保の改革)3000万人 

 1867年 (明治維新)        3400万人

(日本経済の動向を占う)

 江戸時代は、戦後日本と経済政策の流れに近いものがあり、高度成長期、現在の金融緩和に通じる貨幣改鋳、悪化した財政を立て直すための緊縮財政の試行錯誤。

 多額な財政債務や低成長率の経済は、経済構造をリセットするくらいの改革でなければ、どんな政策を打ち立てても政府債務はズルズル悪化の一途をたどる。江戸時代は、明治維新によってリセットされた。日本、いや世界全体かもしれないがどういった方法でリセットするのかは今の私には思いつかない。

 今の日本は、相対的な世界的地位が下がっても、日本は世界トップクラスの債権国である事には変わりない。国としては十分に余裕がある。このため、産業構造をリセットするくらいの改革は起こりにくい。あえて言えば、江戸時代中期から後期のように、当分の間は金融緩和⇔緊縮財政を右往左往する政策を繰り返していくのであろう。



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