家系消滅の時代と「Die with Zero」
(家系消滅の深刻さ)
由緒ある家系とそうでない家系。かつて人々はそんなことでマウンティングをしていたが、今の少子高齢化によって家系の良悪に関わらず子供がいない事で自分の代で家系が途切れる危機にさらされている。どんなに社会的に優越的な立場にいても自分の血を引き継ぐ子孫がいないのは深刻な問題である。これは人生後半になればなるほど当事者に重くのしかかって、「土から土に戻る」境地に苛まれてしまう。そういった意味ではすさまじい勢いでの少子化の進行により、あと10年、遅くても20年もすれば、次世代に子孫を残せない老人が大半を占める現状を踏まえ、次世代に向けて子孫を残せている人達が本当の意味での勝ち組であると称される日もそう遠くもない。
(「Die with Zero」時代の到来)
生物である限り、永遠はなく、全ては線香花火のように寿命の制限下で踊らされている。人生の後半になれば自分自身の残してきた財産の後始末が必要になってくる。自分自身のお金を引き継ぐ子孫がいないなら、お金だって残しても意味がない。自分自身の貯めた資産は命が尽きるまでに使い切ろうという事になり、瞬間風速で億越えの富裕層に到達しても、しまいには有名な「Die with Zero」で人生の終焉を迎えることになる。そういった人たちが徐々に増え始め、多数派になることも否定できない。
逆に、子供や孫がいれば、自分の家系が末永く繫栄するための頑張りができる。だからこそ、子孫のために資産を残さなければならない気持ちにもかられる。そういった点では資産の残し方という点でも二極化された社会に突入する。
(「金持ち3代、貧乏5代」も消滅)
中国には「金持ち3代、貧乏5代」の諺がある。科学的にもこの循環説はまちがっていないと想定されるが、これだけ少子化が深刻化した昨今においては、この過程の中で家系が消滅することを心配しなくてはいけない。
「一代目が財をなし金持ちになると、その子ども(二代目)は親の姿を見て育つので努力の価値を知っている。しかし、自分の子(三代目)にはそんな苦労をさせたくないと過保護に育てるし、また、三代目は生まれながら金持ちの子どもでスタートするので努力することを知らない。それが災いして家を潰す。その子どもは家が没落しているので貧乏で育つ(貧乏初代)、次の子は生まれながらの貧乏(貧乏2代目)。その子どもも貧乏だが何とかしようとコツコツ働く(貧乏三代目)。そしてその次の子(貧乏四代目)は「「家貧しくして孝子 顕わる」で孝心のある子でよく働き、家族を大切にする。それを見て育つ貧乏五代目が更に努力して財をなす。」
(方丈記が語る世代間に跨る平準化)
方丈記「河の流れは常に絶える事がなく、しかも流れ行く河の水は移り変って絶間がない。世の中の人々の運命や、人々の住家の移り変りの激しい事等は河の流れのようだ。壮麗を極めた京都にぎっしりと立ち並んでいる家々は美しく高いいらかをお互いに競い合っている。さてこういう貴賤様々な人々の住家の中に不変のものを見出す事は出来るものではなく、昔のままに現在までも続いている家は殆ない。この辺に美しい立派な住家があったのだがと見るともうその家は去年焼け失せて無くなったり、又こんな所にこんな立派な住家は無かったと思って見ると前の貧しい家は焼け失せて現在はこれほどの立派な住家になったりする。真に人々の歩むべき運命の路のあまりにも変転極まりないのを見ると感動に堪えないものがある。」
方丈記でも人の輝きは長く続かないことを語っている。人間って上手く出来ていて、金持ちになると容姿端麗だけが取り柄の美女と結婚することで、その子供の容姿は良くても商才は劣化してしまい商家を没落させていく。それを2代続けると大抵の場合元の凡家に戻ってしまう。本当は、適度な知性と機転の利いた程々の容姿の男・女性と結婚するのが正解なのだが、人はそういう行動はとれない。
(神の見えざる手と科学技術の攻防)
結局のところ、私たち人類はどんなに知性が発達してもDNAにコントロールされている。上記の「金持ち3代、貧乏5代」も方丈記もDNAが操る平準化機能の一部であり、さらには昨今の科学技術の発達によって、DNA側は過剰に子孫を残す必要がないことを判断し、少子化に舵を切っている。これってまさに神の見えざる手である。
しかし、科学技術は神の見えざる手を凌駕するかもしれない。それは人工授精により子供を増やすことが現実味を帯びないわけではない。このまま少子化が進めば22世紀にはこういった政策を打ってくることも予想される。その頃には、人の寿命でさえ平均150歳という時ことも絵空事ではなくなるが、政府がそういった事情を考慮しながら人口をコントロールする時代も現実味を帯びてくるのかもしれない。


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